NO104:青倉神社の岩清水「御霊水」

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佐中から引き返し、青倉神社→黒川温泉→生野銀山 と巡次回ってきました。

まずは、青倉神社の「御霊水」を頂きに行く事に、場所は朝来市多多良木の青倉山の中腹にあります。
佐中から国道312号を少し引き返すと国道の縁に大鳥居が建っています。
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この鳥居から、青倉神社には
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山岳道路を登り、青倉山の中腹辺りに在ります。そこまでを参道というなら、案外日本一長い参道かもネ
この近辺には三つのダムがあります。そのためか、山岳道路も立派な道です。そして、こちらが本来の参道入り口の鳥居です。
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参道の縁には、社務所まで寄付された方の石柱が並んでいます。
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本殿には、この急な石段を登って行きますが、この神社の境内が断崖絶壁に造られてられているようなところデス。
なんせ、御神体はモアイ像のような岩なのです。
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この本殿の後ろに、モアイ像が
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その、胴体になる部分が、神殿の中に鎮座してしめ縄が巻かれています
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ウィキペディアにも、青倉神社の言い伝えが載っていたので借れてきました。
「昔々、おじいさんがウドを採っている最中に過って目にウドのトゲを刺してしまい、大変苦しんでいた。親孝行の息子がたいそう心配していたところ、神様が夢枕に立ち「岩から湧き出る水をつけると治る」とお告げをした。目覚めた息子は、夜が明けるとすぐ湧き出る水を探しを始め、山々を巡ってようやく巨岩の奥から流れている清水を見つけだした。それを持ち帰り、父親の目につけると、痛みが消えていき、目が見えるようになったそうな。
この昔話から、神社の氏子はウドを食べないという。」
我が地方も、ここの水は眼病に良いともっぱらの噂です。

その水がこちらです。
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この岩を伝って流れてきた水が
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長年の水の流れでできた岩のスジを通って
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このタンクに、上の◎を書いたコンクリートの水溜めに溜まった水が入り蛇口から頂く仕組みです。
このタンクの溢れた水は下の
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大きなコンクリートのタンクに行き、溢れた水は、さらに上り口に在る手水舎まで流れて大事に「御霊水」として利用されていました。
社務所も立派なのがあり、参拝者記入帳にな!なんと!!我が近所の人の名前が書いてあった!それも日を置いて二組の名前が!!!、なんと偶然な
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「御霊水」は、「なつたん(夏谷)の清水」をもらいに行った時出会った「マッタケ採り名人」が、青倉の水はダメだと言ってたのを覚えていたので、取水場までが遠いい事もアリいつもは8本のペットボトルに汲んでくるのを、今回は4本にして頂いてきました。
次は、温泉に・・・
黒川温泉は、TOPの写真に出ている通り、黒川ダムのまあ下に在ります。黒川ダムは、青倉神社から山岳道路を登り切って峠を越えた所に湖面が広がっております。
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少し書きましたが、ここには、生野ダム、黒川ダム、多々良木ダムの三つのダムがありますが、黒川ダムと多々良木ダムは揚水型発電用ダムで、原発の夜間発生電力を有効活用するために造られたとか、夜間多々良木ダムから黒川ダムに水を上げ、昼間黒川ダムから多々良木ダムへ水を落として発電をするというものらしい。生野ダムは多目的ダムとして利用されている。
又、竹田城辺りに雲海が発生しやすいのも、この三つの湖面からの霧の発生が大きく寄与していると地元の人に聞いた事がある。
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チョイト写りが悪く見にくい写真です。お許しをm(__)m
また、ダムサイトに行った時に関電の職員さんから聞いた話によると、立っている風力発電用風車はメンテナンスが大変そうで、今は止めてあるとの事でした。
ダムサイトから見た黒川温泉一帯
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初めて黒川温泉に来た時は、ロックフィル式黒川ダムの威容さに衝撃を受けました(怪獣映画に出てくるような)が、今では慣れてしまい何にも感じなくなってしまいました。人間の慣れの恐ろしさの一面です。
で、肝心な黒川温泉は
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この様に建物も場所も変わっており、私が思っていた山奥に一軒だけある湯治場のイメージは崩れてしまい、小さいながら今風の日帰り温泉でした。以前の面影は、温泉の横にある朽ちかけたお寺「大明寺」だけであっあ。
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しかし、こちらのお寺にも依然見られなかった金ピカの仏像が立てられていた。温泉は、大浴場と露天風呂がある温泉設備でした。吾輩には泉質を評価するだけのモノを持ち合わせていませんので あ し か ら ず。
無事『奥様孝行』も済ませ、最後の訪問地「生野銀山」へ向けて出発した。

黒川温泉から生野銀山までは、途中生野ダム湖畔を走り
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生野銀山へ到着
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こちらの生野銀山には、一円電車「あおば号」が
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すまして歩いているオバサンを見るのではなく、右のトロッコ電車です。こちらは、お化粧がしてないようで・・・
それにしても、にぎやかな雰囲気
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銀山跡地での地元生野町観光協会のイベントが行われていた。
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へいくろう祭 という意味の解らん名称だったので調べてみたら
~Yahoo知恵袋から~
「兵庫県の生野銀山では、ヒカゲツツジが群生しているそうです。
生野ではこの花を「へいくろう花」と呼んでいるそうです。なぜそう呼ぶかは、判りません。
昔鉱山で働いていた坑夫達が、ヒカゲツツジが咲く頃になると仕事を休みたがり、休憩することや怠けることを”へいくろうする”と言っていたのが名前の由来だとか。」
到着するのが遅かったようで、イベントのピーク時は過ぎていたようでしたが、我らも出店で腹ごしらえをして、いざ銀山の史跡巡りのお勉強会へ入場料を払って入って行く事に。(内心、イベントの時ぐらいは入場料無料!!!という太っ腹の良い面が見たかった)^_^;
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ここで生野銀山の歴史を(入場券のシオリから)
 生野銀山は大同2年(807)に発見されたと伝えられ、室町年間の天文11年(1542)には山名祐豊時代に銀鉱脈の本格的な採掘が始まりました。織田・豊臣の各時代を経て、江戸時代に幕府が「銀山奉行」を設置。その後生野代官が置かれ、やがて生野銀山は最盛期を迎えます。
 明治元年、政府直轄鉱山となった生野銀山にフランス人技師ジャン・フランソワ・コァニェが着任し、軌道や捲揚機の新設など数々の先進的施策により、めざましい近代化を成し遂げました。
 明治22年には宮内省御料局の所管へ移され皇室財産へ。ついで明治29年に三菱合資会社へ払い下げられ、国内有数の大鉱山として稼行しましたが、昭和48年に閉山し、長い歴史に幕を閉じました。
 その間に掘り進んだ坑道の総延長は350キロメートル以上、深さ880メートルの深部にまで達しており、採掘した鉱石の種類は70種類以上にも及んでいます。
       ジャン・フランソワ・コァニェ氏
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鉱道入口
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左の石段から露天掘りの遺跡群へ行けます。まずは、そちらから攻める事にしました。
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石段を上り詰め、少し歩くと朽ちかけた扉のゲートがありました。
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その奥に、溜まった沢水があまりの透明度に、水深を測るんだーと、石を投げて戯れているオ バ サ ン
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5分ほど山道を登って行くと、
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   露天掘跡(慶寿ヒ)
 慶寿ヒ(けいじゅひ」)は、生野銀山最大の鉱脈である千珠ヒの一部で非常に品質の高い銀(自然銀)を産出しました。
 この鉱脈が発見されたのは、室町時代末期の永禄10年(1567)頃と記録されています。
 ここから見える堀跡は慶寿ヒの一部で、江戸時代の末期までの300年間休むことなく採掘され、地下200メートルの深部まで達しています。
        平成四年三月    生野町教育委員会
徳川時代の旧鉱  出賀抗   坑口
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右に見えるのが、例のひかげつつじ
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ひかげつつじ    ツツジ科つつじ属   ひかげつつじ亜属
 常緑低木、花は四月中旬頃咲く、淡黄色で少し緑色をおびる。温帯岩場のがけに多いい。
この付近は全国でも珍しい大密生地である。   自然保護植物
みだりに伐採すると、条例によって罰せられます。

露天掘りをもう一つ
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金香瀬  旧露頭群跡 「露頭とは鉱脈が地表に現れた部分で、昔はこれを探し当てた後に地中へ掘り進みました。」

さて、ここからは生野銀山坑道の内部です。江戸時代から近代にかけての採掘のやり方が展示されています。
唐箕(とうみ)で風を送る(左)下財(げざい)工夫の事を総称して呼びました(右)   
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   狸掘(この穴を這いながら掘り進んだ)
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    サンドスライム充填採掘法
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      蓄電池機関車
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鉱脈を掘った跡(左)      上向き削岩機(右)      
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シュリンケージ(鉱脈というのは丁度一枚の板を立てたような状況で地下から噴出しており、その長さは1km以上も達するものがあります。鉱脈を破砕し順次鉱石を井戸に掻き落として行くと、この様な空洞ができます。)
     坑道内の水脈
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そして坑道内最大の機械、巻揚げ機
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図面の地下730mまで降ろすようです(海面より300m以上下)
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   チョイト分かりずらいですが、エレベーターが映っています
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坑道から出てくると、「へいくろう祭」のイベント全国トロッコ・力自慢選手権大会の表彰式に、姫路から出張してきた「かんべえくん」が参加していました。
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という訳で、黒川温泉の旅は終わりを迎えました。
肝心な「青倉神社の御霊水」の評価はいかに、マッタケ採り名人が言っていた「おいしくない」の言葉に図らずも・・・
独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした・・・ただし
二週間後には
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vになりました。 
詳しい場所は

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NO103:佐中の銘水「長寿の水」

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上の写真は、有名な「明延の一円電車」です。

今回は、嫁さん孝行?で「黒川温泉」に浸かりに行くついでに2ヶ所の名水巡りをしてきました。
佐中の名水「長寿の水」は兵庫県朝来市佐嚢佐中に在ります。我が家からはテレビでもてはやされています「日本のマチュピチュ・竹田城」の下、国道312号を姫路方面へ進み、
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鳥取へ行く国道29号因幡街道へ出る国道429号へ右折して入って行きます。その途中から右折して佐中川を溯って行くのですが、神小畑(みこばた)という所に明延鉱山から鉱石を上の写真に有る一円電車で運んできて、そこで選鉱していた場所が保存されているので、とりあえずそれを見学に行く事にした。
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        一円電車の由来
この電車はかってマスコミ等で全国的に紹介さて話題を呼んだ有名な錫の鉱山”明延”の一円電車です。
昭和4年養父郡大屋町の明延鉱山と朝来郡朝来町の神子畑選鉱場の間6,1kmに鉱石輸送のための明神電車が開通しました。
昭和20年この鉱石運搬電車に、従業員とその家族の交通の便をはかるためはじめて客車が連結され登場したのがこの電車です。
最初の料金は50銭でスタート、昭和27年に1円に改訂、昭和62年3月明延鉱山の閉山により明神電車が廃止されるまで長期間料金1円のまま据え置き有名になりました。
1円電車の客車は3輌あり、くろがね号、わかば号、あおば号と命名され、永年に亘り地元住民の足として重宝がられました。
本来の使命を終えた後、くろがね号は養父市大屋町明延の地に、わかば号は神子畑の地に、あおば号はかつて兄弟鉱山であつた生野の地に居を移し、それぞれの地で観光に一役かう事になったものです。
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ココの一円電車は化粧直しされ綺麗に保存されています。
その選鉱場に行く途中に標識が
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これが、鋳鉄で明治時代に作られ今なお綺麗な姿で残っている橋です
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でその模様を東京大学の先生が
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    東京大学教授村松偵次郎記
この神子畑鋳鉄橋は今から約90年前の明治16年から18年の間に架けられた全鋳鉄製のアーチ(拱)橋である
下流の羽淵鋳鉄橋とともに日本に現存する鉄橋としては三番目に古いものであり全鋳鉄橋としては唯一最古のものである。とくにこの神子畑橋は殆んど改修を加えられることなく、建設当初の場所にその美しい姿を遺していて、日本の土木技術史上まことに貴重な資料であるばかりでなく、郷土の誇るべき文化財である。
明治初年以来フランスの技術団を招いて開発を進めていた官営生野鉱山は、明治11年この神子畑付近に良鉱を発見して開掘を進めるとともにその銀鉱石を生野鉱山において精錬するための鉱石運搬道(四里四丁五十四間約16,3キロメートル)を明治十六年四月より同十八年三月にかけて建設した。この運搬道の五か所にそれぞれ形式の違う鉄橋が架けられたが、この神子畑橋はそのもっとも上流の神子畑川に架けられたものであり、現在は三菱金属株式会社の所有である。設計製作ともに当時生野鉱山を所管していた政府の工部省において行なわれたものと考えられるが、この場所での建設は技師松井敬馬之助技手関某および諏訪某の監督の元に鉱石運搬の業を請負った山内安左衛門ら近隣の村民の労働によって完成を見たものである。橋長約16メートル経間14,2メートル、幅員約36メートル、主要部材のすべてが鋳鉄製である。
全鋳のアーチ橋は鉄橋の歴史においても最古の型式であって、1779年イングランドのコールフルックテールを流れるセパーン河に架けられて現存しているものを〇矢とするその細部に木橋、石橋の手法を残しているのも鋳鉄アーチ橋が鉄橋の型式としてもつとも初めのものだからであり、この神子畑橋においてもそれが見られる。
橋はその後錬鉄橋の時代を経て今日の鋼鉄橋の時代に至りその構造形式も進歩してきたが鋳鉄のアーチ橋はイギリスにおいてもまた日本においても産業革命の初期を飾るにふさわしい力強くしかもロマンチックな美しさを持っていた。しかし、今はほとんどその現存例を見ない。日本においてはもともと鋳鉄アーチ橋の架けられた例は稀で現在はこの神子畑と羽淵の二橋を残すのみである。
この貴重な美しい橋を今日まで保存された関係者の功績は偉大であるが、さらに多くの人々の協力によって
この美しい環境の中に永遠に伝えられることを祈ってやまない。
                三菱金属株式会社 明延鉱業所
                   維持昭和四十九年十一月
              ~あーつかれたバッテン <(`^´)>
この鋳鉄橋は生野まで鉱石を運搬する道として作られ、当時は馬車が走っていたとの事です。
更に奥に進んで行くと、選鉱跡が見えてきます。
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当時の姿が
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一円電車は、鉱石を明延から運んできて、この選鉱場の一番上に着き、鉱石を下したとの事。それから鉱石を砕きながら有用鉱物を選び出し、最後の「シックナー」という
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この装置で、最後の最後まで有用鉱物を取り出すために液状になった鉱石と水を分離して精鉱を取り出したというものです。
最盛時には、神子畑地区に1300人という人々が生活をしていたという、今では朽ち果てて考えられない当時です。
拾数年前に来たことがありますが、最近は観光化されて、当時ハイカラであった旧事務所がセーム写真館として茶店にもなっていました。
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さて、神子畑選鉱所を後に再度引き返し、肝心な「長寿の水」を求めて佐中川をさかのぼって行くことに。
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集落を過ぎても一向に出てこない、道を間違えたのかいなと心細くなりながら進んで行くと、それらしき物が見えた。
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近づいてみると、立派な設備が作ってあり、その横には誇らしげに 佐中の銘水 長寿の水 (小さな字で)六甲のおいしい 水と飲みくらべて下さい 佐中のうまい水  その下には、佐中先年家→700mとも書いてあり、後程こちらにも行く事にして、まずは水を汲む事に 
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今回は、温泉行が待ち構えているためか我が連れ合いも積極的に協力してくれています。
私はその間に、例のスケベ心を出して水源の調査に
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見る限り、堰堤でためた沢水を地中からパイプで引いている様子、しかし、このような所は何処でもあり、ここにこのような設備を作っている事には何か訳があるはず、後程調べてみると「死に際の老人に飲ませたところ、一命をとりとめた」との伝説が語り伝えられており、それが元で「長寿の水」と附いたとの事です。これは想像ですが、この沢の上流から湧いて出ている水が流れて来て、太古とは言わないが、昔から日照りの日も途切れることなく水が流れ、周辺の人達から大切にされてきていたのではないでしようか。調べているうち、2009年頃の写真にはタンクは写っていなかったのですが、多くの人の利用があり汲み易く改良されて大切に守られているようです。我々にとってありがたい事です。
帰ってからコーヒーを沸かして飲むのが楽しみに、千年家に行って見る事に
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佐中の千年家のいわれが書かれた立札が
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      佐中先年家之由来
伝説によると、千年家の祖は近江の国(滋賀県)三上山に棲息する大百足(ムカデ)退治・・・
  ・・・1990年取材に訪れたTV局が「千年家」と称し以後通称として親しまれている。
              平成十年四月  佐中先年家保存会 
読めないので大まかに、関心のある方はこちらで三上山・百足退治藤原秀郷の末裔らしい

つまり、千年も経っていないという事 ^_^;
塀で囲まれ、中も見学することもできず早々退散することに、次の名水を汲みに引き返しました。

「佐中の銘水」を帰ってコーヒーを沸かして飲んだ結果、自慢するだけの事は有りましたが・・・
独断と偏見の味評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
一週間後
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vになってしまいました。

詳しい場所は  

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NO51:夏谷の名水

平成 天空のお城:日本のマチュ・ピチュ竹田城跡の近くに在る湧水デス
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まさに雲に乗った感覚が味わえる場所です。必ず、雲海が城郭近くまで上がっている時に行ってください。日本一の雲海です
昨年の11月に大江山の鬼嶽稲荷神社の御神水を汲みに行ったとき見た雲海が忘れられず、今年はもっと良い所の雲海が見たいと思っていたところ、映画「あなたに」の中に出てきた竹田城跡の雲海を見て、これだ!と、雲海の出る時期を待っての水汲みでした。
仕事の関係もあり、日曜日しか行く事が出来ず「その日」を待っていたのであります。とりあえず、「その日」が前日から晴天で、夜雲のない放射冷却現象が起こる日が一番良いのですが、噂によると、日本海に高気圧が張り出している時が一番良いらしいという事です。今回は西日本をすっぽり高気圧が覆っており少し噂とはずれるので心配でしたが行く事に決定しました。行くのなら、近所に湧水が出てないか探してみると、有りました!後ろの竹田城跡が見える峠「藤和峠」付近にあるという事でしたので、そこにもよって水を汲んでくる計画を立てました。
写真撮影は、日の出1時間前からシャッターチャンスを狙うのが良いとの事、写真撮影に適した場所は三ヶ所、一つは先ほど書いた「藤和峠」二つ目に「立雲峡」で三つ目には「竹田城跡」です、雲海に浮かぶ竹田城を写すには「立雲峡」が無難だという事から、とりあえずそこに行って見る事にしました。
「立雲峡」は丸山川を挟んだ竹田城の対岸(山)?に位置し、山の中腹が公園になっています。しかし、噂によれば駐車場からさらに山を登って行かなければ最高の撮影場所がないとの事、歩いて上がる時間を30分とみて、我が家から「立雲峡」に行くのを約1時間として、日の出が7時ごろなので逆算すると、7時前に待ち時間ー1時間+行く時間ー1時間+上る時間ー30分で合計ー2時間30分となり遅くともAM4時30分には家を出発しなければならない!マタマタ夜夜中起きをしなくてはならない^_^; ・・・という事でAM4時に出る事が出来ました。
国道から脇道に入り、「立雲峡」に行く山道をを探すのだが、カーホテル立雲峡の出口と一緒になっていて解りにくい場所でした。よくよく見るとカーホテルの看板でなく、「立雲峡」公園の案内看板でややこしい事この上ない
所にホテルが在るもんだと思いながら、山道を登って行くと駐車場が出てきました。が早満車のようで、結局路上駐車してしまいました。しかしまだ駐車場に近く、帰りに見たのですが、多くの方がホテル付近の道端に止めて歩いて上がっておられるようでした。
駐車場から息を切らせながら急坂をよじ登って行ったのですが、後からも次から次へ見物人が来ているようでした。
で上から一番展望地二番展望地三番展望地とあるうち、一番展望地に着いた時の人混みの様子と、竹田城です。
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まだ薄暗く竹田城跡ははっきり見えません。それでもアマチュアカメラマンは場所取りに早く登って来とられるようで、早三脚も立てて準備万端の方たちが白方向を凝視しておられました。私はブログの写真を撮るぐらいでバカチョンカメラですからある程度の雰囲気が取れればそれで満足なのです。
次第に明るさが白見出してきましたので、その雰囲気を↓
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さらに↓
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さらに↓
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さらに↓
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このころになると、さらに上に登って見だしました。その近くで撮影をしていたオジサンと話しをすると、近所にお住まいという、なんでも雲海が出るようなときは日参して良い場面を狙っているらしい。今日の雲海の出来はと尋ねてみると60点だという^_^;  これで60点なら100点満点はどんな時なのかと尋ねると、雲海がかすかに竹田城を隠す時だという、寒いと雲海が下の方で上に上がってこない、ある程度の寒さの日の方が雲海は竹田城近くまで上がってきて最高のシーンが撮れるとの事、今年は10月3日ごろが良かったと言っておられました。
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さらに↓
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で、そのオジサンいわく、この辺の雲海は少し先に在る三つのダムから出てくるとの事、そういえば生野ダム・黒川ダム・多々良木ダムが在る、近くに三つもダムがある所はまれにはないだろう、ダムの水から寒い夜に水蒸気として上り霧が立ち込める事によって雲海が発生するらしい、雲海を見ているとそのダム方向から流れている様子が見えた。
太陽も顔を出し切ったので次の目的地、竹田城跡へ向かうために山を降りる事にした。
途中まで降りてきたら、竹田城は雲海で隠れていた↓
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駐車場に降りてくると、遠方から来ている車も結構止まっていました。この時間になると、日曜日という事もあって家族連れの人たちが次から次へと登って来られていました。

早速竹田城の登り口へ、国道から見る竹田城を表側とすると混雑するときだけか?裏側の登り口から表側の降り口と一方通行に規制されていた。
まだ、そう注目されていないゥン十年前に行った時は表側から城跡入口まで車で行けたが、今回は県道から登り口に入るところ付近の道端に車が止めてあった。おそらく車の渋滞で歩いて上がったのだろう、行った時はそこまで渋滞はしていなかったので中腹に在る駐車場へ向けて登って行った。少し走って行くと40分待ちという看板が倒してあった。それを横目で見てさらに上がって行くと渋滞のどん尻の車に追いついた。
これはたまらんと思い車を反対車線の道端に置くことに、どうも交通規制をしていて、中腹の駐車場が満車なので、そこが空いた分だけ車を入れている模様であった。
山城の里という物産店前で警備員が交通整理していたので、歩いていくとどのくらいかかるか尋ねてみると、駐車場まで20分、そこから城まで20分との事、実は立雲峡を登ったことで足腰がつかれていたが再度気を取り直して登ることに!!
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やっとのことでお城の入口に、そこには竹田城の成り立ちの説明が書かれた看板が立てて在りましたので何時もの通り書き出しをします。
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史跡 竹田城跡
      ー遺構についてー
竹田城は別名「虎臥(とらふす)城」という。嘉吉年間、山名持豊(宗全)が播磨・丹波から但馬への侵入路に位置する要衝の地に13か年を費やして築いたものと伝えられていきた。
築城当時の城には石垣はなく、曲輪を連ねただけのものであった。それが現在の完成された城郭に整備されたのは、天正~慶長初期と推定される。
石垣は近江穴太(あのう)衆の手による穴太石積の技法を用いた”野面(のづら)積み”である。石材は現地のほか山麓付近から集めたものであろう。
遺構は最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下南方に南二の丸、南千畳、北方に二の丸、三の丸、北千畳を築いている。さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭があり、主郭のなかでも最も低い位置に在るため、南北には向かい合った塁状石垣列を築いている。
規模は南北約400m、東西100mで今なお当時の威容を誇っており、山城として全国でも数少ない現存する遺構である。
国史跡(昭和18年9月8日指定) 
所在地:兵庫県朝来市和田山町竹田字古城山169番地

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さらに↓
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ー城主についてー
城は築城後、山名の家臣太田垣光景が初代城主となったと伝えられ以後太田垣氏は七代にわたりこれを守り継いだ。応仁の乱では二代城主影近が京都へ出陣した際、夜久野へ来襲した細川軍を影近の二男宗近が打ち破ったという。
永禄12年(1569)羽柴秀吉は但馬へ攻め入り竹田城を攻略した。天正5年(1577)再び秀吉軍の攻撃をうけ、竹田城はついに落城した。このあと秀吉は弟小一郎を城代として城内の整備を命じている。同8年(1580)桑山重晴が城主となり、13年には四国征伐等で戦功のあった赤松広秀を竹田城主として入れた。広秀は九州征討、朝鮮の役等に出役したほか、文化人としても儒学者藤原惶穴との親交も厚く、領民には産業を奨めて深く敬慕された。
関ヶ原の役には西軍に属した。関ヶ原敗戦後、徳川方として鳥取城を攻め、戦功をあげたにもかかわらず、城下に火を放ったことで徳川家康の忌避にふれ、鳥取真教寺において自刃して果てた。享年39歳、慶長5年10月28日のことである。
         朝来市教育委員会

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さらに↓
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写真で見たように、天空の竹田城を写真に収めるなら立雲峡へ、天空の城の気分を味わうなら竹田城跡に行かれることをお勧めいたします。どちらも日の出前に行きその幻想的な世界を味わってください。

という訳で、次の目的地にへ・・・   下は帰り道で写した一コマです。
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この時分(10時過ぎ)には霧は晴れてしまっていた。
ようやく下界に降りてきて腹が減ったので山城の里で何か食べようという事になり寄ってみたのだが、開店したばかりで食事はまだできないとの事、早朝からこんなに観光客が来ているのに、それも早朝の寒い中、温かい物を土日だけでも売ればそれなりに売れると思うのだが、まして駐車場を開放しているようなのでもっと商売気を出しても良いのじゃないかな~と思いながら、残念ながら次の目的地、夏谷の名水を汲みに藤和峠向けて出発した。
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藤和峠の分かれ道にこのような標識が立てて在り、地元の町おこしの気持ちが伝わってくるようでした。
で、右にハンドルを回して進んで行ったのだが、汲む処が出て来ず「ホンマにあるんかいな?」と言いながら登って行くと中腹あたりに看板が見えてきた。先客が入れているようだったので、竹田城第三の写真スポット藤和峠頂上へ行って見る事に。
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余にも遠いくて、私のバカチョンカメラではズームにしてもこんな感じでした。
これではゆっくり見ている値打ちがないと「夏谷の名水」場所へ引き返した。
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すぐ引き返してきたものだからまだ水を汲んでおられたので待ちながら世間話を・・
なんでも、お住まいは姫路の方だとか、出身は和田山町で今日は松茸を探しに来たついでに水も汲みに来たとの事、松茸採りはこの辺は入山料を払って採りに入るようで、今年の出来は悪いとの事、なぜ悪いのかと尋ねると今年は雨が少ないとの事、大きな雨を降らす台風の襲来がないと山の掃除をしてくれないようです。そういえば、昔は薪や植林に山に入り掃除のようなことをしていたから松茸もたくさん取れたというようなことを聞いた事があった。オジサン曰く「平成16年の23号台風の丸山川が大氾濫した年はたくさん松茸が取れた」と言っていた。
そのうち連れのオジサンも合流されて湧水談義になり、結構いろいろと湧水を汲みに行っている様子で、あそこがどうのこちらの方が美味しいとか情報の交換をし、ここの水は一口飲めば美味しいと判ると自慢をしておられました。
ココの「夏谷(なったん というらしい)の名水」は岩間から湧き出しており、それが岩の窪みに貯めたやつを二本のエスロンパイプで導いて来ており、その窪みに沢蟹が居ついており時々砂利をパイプの中に入れているようだと面白い話をしておられ、最後にこの水はパイプに青粉がつかないので良いのだとの事、その辺は青粉がつく方が良いのか、つかない方が良いのかわからないが、私は着いたほうが生物(人間)には為が良いように思うのだが?
まあ、そのような世間話をしながら、水を汲んでお別れした。
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地元の御好意で、お茶碗と漏斗が置いてありました。
尚、「夏谷の名水」の云われは、朝来市和田山町山波字夏谷(なつたに)の地名から来ているそうですが、
地元の方は「なったん」と呼ばれているそうです。なにか ほほえましい気分を感じますネ
情報元は:但馬情報特急の管理人さんからデス(^_^)/

長くなりましたが、「なったんの名水」の味ランクは、帰って三週間なくなるまで美味しく飲めました。
デェ~独断と偏見の味ランクは
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした

詳しい場所は

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