NO104:青倉神社の岩清水「御霊水」

佐中から引き返し、青倉神社→黒川温泉→生野銀山 と巡次回ってきました。
まずは、青倉神社の「御霊水」を頂きに行く事に、場所は朝来市多多良木の青倉山の中腹にあります。
佐中から国道312号を少し引き返すと国道の縁に大鳥居が建っています。

この鳥居から、青倉神社には


山岳道路を登り、青倉山の中腹辺りに在ります。そこまでを参道というなら、案外日本一長い参道かもネ
この近辺には三つのダムがあります。そのためか、山岳道路も立派な道です。そして、こちらが本来の参道入り口の鳥居です。

参道の縁には、社務所まで寄付された方の石柱が並んでいます。


本殿には、この急な石段を登って行きますが、この神社の境内が断崖絶壁に造られてられているようなところデス。
なんせ、御神体はモアイ像のような岩なのです。

この本殿の後ろに、モアイ像が

その、胴体になる部分が、神殿の中に鎮座してしめ縄が巻かれています

ウィキペディアにも、青倉神社の言い伝えが載っていたので借れてきました。
「昔々、おじいさんがウドを採っている最中に過って目にウドのトゲを刺してしまい、大変苦しんでいた。親孝行の息子がたいそう心配していたところ、神様が夢枕に立ち「岩から湧き出る水をつけると治る」とお告げをした。目覚めた息子は、夜が明けるとすぐ湧き出る水を探しを始め、山々を巡ってようやく巨岩の奥から流れている清水を見つけだした。それを持ち帰り、父親の目につけると、痛みが消えていき、目が見えるようになったそうな。
この昔話から、神社の氏子はウドを食べないという。」
我が地方も、ここの水は眼病に良いともっぱらの噂です。
その水がこちらです。

この岩を伝って流れてきた水が

長年の水の流れでできた岩のスジを通って

このタンクに、上の◎を書いたコンクリートの水溜めに溜まった水が入り蛇口から頂く仕組みです。
このタンクの溢れた水は下の

大きなコンクリートのタンクに行き、溢れた水は、さらに上り口に在る手水舎まで流れて大事に「御霊水」として利用されていました。
社務所も立派なのがあり、参拝者記入帳にな!なんと!!我が近所の人の名前が書いてあった!それも日を置いて二組の名前が!!!、なんと偶然な

「御霊水」は、「なつたん(夏谷)の清水」をもらいに行った時出会った「マッタケ採り名人」が、青倉の水はダメだと言ってたのを覚えていたので、取水場までが遠いい事もアリいつもは8本のペットボトルに汲んでくるのを、今回は4本にして頂いてきました。
次は、温泉に・・・
黒川温泉は、TOPの写真に出ている通り、黒川ダムのまあ下に在ります。黒川ダムは、青倉神社から山岳道路を登り切って峠を越えた所に湖面が広がっております。

少し書きましたが、ここには、生野ダム、黒川ダム、多々良木ダムの三つのダムがありますが、黒川ダムと多々良木ダムは揚水型発電用ダムで、原発の夜間発生電力を有効活用するために造られたとか、夜間多々良木ダムから黒川ダムに水を上げ、昼間黒川ダムから多々良木ダムへ水を落として発電をするというものらしい。生野ダムは多目的ダムとして利用されている。
又、竹田城辺りに雲海が発生しやすいのも、この三つの湖面からの霧の発生が大きく寄与していると地元の人に聞いた事がある。

チョイト写りが悪く見にくい写真です。お許しをm(__)m
また、ダムサイトに行った時に関電の職員さんから聞いた話によると、立っている風力発電用風車はメンテナンスが大変そうで、今は止めてあるとの事でした。
ダムサイトから見た黒川温泉一帯

初めて黒川温泉に来た時は、ロックフィル式黒川ダムの威容さに衝撃を受けました(怪獣映画に出てくるような)が、今では慣れてしまい何にも感じなくなってしまいました。人間の慣れの恐ろしさの一面です。
で、肝心な黒川温泉は

この様に建物も場所も変わっており、私が思っていた山奥に一軒だけある湯治場のイメージは崩れてしまい、小さいながら今風の日帰り温泉でした。以前の面影は、温泉の横にある朽ちかけたお寺「大明寺」だけであっあ。

しかし、こちらのお寺にも依然見られなかった金ピカの仏像が立てられていた。温泉は、大浴場と露天風呂がある温泉設備でした。吾輩には泉質を評価するだけのモノを持ち合わせていませんので あ し か ら ず。
無事『奥様孝行』も済ませ、最後の訪問地「生野銀山」へ向けて出発した。
黒川温泉から生野銀山までは、途中生野ダム湖畔を走り

生野銀山へ到着

こちらの生野銀山には、一円電車「あおば号」が

すまして歩いているオバサンを見るのではなく、右のトロッコ電車です。こちらは、お化粧がしてないようで・・・
それにしても、にぎやかな雰囲気


銀山跡地での地元生野町観光協会のイベントが行われていた。

へいくろう祭 という意味の解らん名称だったので調べてみたら
~Yahoo知恵袋から~
「兵庫県の生野銀山では、ヒカゲツツジが群生しているそうです。
生野ではこの花を「へいくろう花」と呼んでいるそうです。なぜそう呼ぶかは、判りません。
昔鉱山で働いていた坑夫達が、ヒカゲツツジが咲く頃になると仕事を休みたがり、休憩することや怠けることを”へいくろうする”と言っていたのが名前の由来だとか。」
到着するのが遅かったようで、イベントのピーク時は過ぎていたようでしたが、我らも出店で腹ごしらえをして、いざ銀山の史跡巡りのお勉強会へ入場料を払って入って行く事に。(内心、イベントの時ぐらいは入場料無料!!!という太っ腹の良い面が見たかった)^_^;)

ここで生野銀山の歴史を(入場券のシオリから)
生野銀山は大同2年(807)に発見されたと伝えられ、室町年間の天文11年(1542)には山名祐豊時代に銀鉱脈の本格的な採掘が始まりました。織田・豊臣の各時代を経て、江戸時代に幕府が「銀山奉行」を設置。その後生野代官が置かれ、やがて生野銀山は最盛期を迎えます。
明治元年、政府直轄鉱山となった生野銀山にフランス人技師ジャン・フランソワ・コァニェが着任し、軌道や捲揚機の新設など数々の先進的施策により、めざましい近代化を成し遂げました。
明治22年には宮内省御料局の所管へ移され皇室財産へ。ついで明治29年に三菱合資会社へ払い下げられ、国内有数の大鉱山として稼行しましたが、昭和48年に閉山し、長い歴史に幕を閉じました。
その間に掘り進んだ坑道の総延長は350キロメートル以上、深さ880メートルの深部にまで達しており、採掘した鉱石の種類は70種類以上にも及んでいます。
ジャン・フランソワ・コァニェ氏

鉱道入口

左の石段から露天掘りの遺跡群へ行けます。まずは、そちらから攻める事にしました。

石段を上り詰め、少し歩くと朽ちかけた扉のゲートがありました。

その奥に、溜まった沢水があまりの透明度に、水深を測るんだーと、石を投げて戯れているオ バ サ ン

5分ほど山道を登って行くと、


露天掘跡(慶寿ヒ)
慶寿ヒ(けいじゅひ」)は、生野銀山最大の鉱脈である千珠ヒの一部で非常に品質の高い銀(自然銀)を産出しました。
この鉱脈が発見されたのは、室町時代末期の永禄10年(1567)頃と記録されています。
ここから見える堀跡は慶寿ヒの一部で、江戸時代の末期までの300年間休むことなく採掘され、地下200メートルの深部まで達しています。
平成四年三月 生野町教育委員会
徳川時代の旧鉱 出賀抗 坑口

右に見えるのが、例のひかげつつじ

ひかげつつじ ツツジ科つつじ属 ひかげつつじ亜属
常緑低木、花は四月中旬頃咲く、淡黄色で少し緑色をおびる。温帯岩場のがけに多いい。
この付近は全国でも珍しい大密生地である。 自然保護植物
みだりに伐採すると、条例によって罰せられます。
露天掘りをもう一つ

金香瀬 旧露頭群跡 「露頭とは鉱脈が地表に現れた部分で、昔はこれを探し当てた後に地中へ掘り進みました。」
さて、ここからは生野銀山坑道の内部です。江戸時代から近代にかけての採掘のやり方が展示されています。
唐箕(とうみ)で風を送る(左)下財(げざい)工夫の事を総称して呼びました(右)


狸掘(この穴を這いながら掘り進んだ)

サンドスライム充填採掘法

蓄電池機関車

鉱脈を掘った跡(左) 上向き削岩機(右)


シュリンケージ(鉱脈というのは丁度一枚の板を立てたような状況で地下から噴出しており、その長さは1km以上も達するものがあります。鉱脈を破砕し順次鉱石を井戸に掻き落として行くと、この様な空洞ができます。)
坑道内の水脈

そして坑道内最大の機械、巻揚げ機

図面の地下730mまで降ろすようです(海面より300m以上下)

チョイト分かりずらいですが、エレベーターが映っています

坑道から出てくると、「へいくろう祭」のイベント全国トロッコ・力自慢選手権大会の表彰式に、姫路から出張してきた「かんべえくん」が参加していました。

という訳で、黒川温泉の旅は終わりを迎えました。
肝心な「青倉神社の御霊水」の評価はいかに、マッタケ採り名人が言っていた「おいしくない」の言葉に図らずも・・・
独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした・・・ただし
二週間後には
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vになりました。
詳しい場所は
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