NO373:粉河の「お大師さんの井戸」

西国三十三ヶ所巡り第三番「粉河寺」参りに行った折り、寄ってきた水汲み場のレポートです。
西国三十三番札所巡りの三番札所以降は日帰り参拝ができる距離内にあるため日帰りで計画を立てました。
やはり遠方まで行くため水汲みも行きたくなり探してみると、近場に二ヶ所の汲めるところが見つかりました。
目的のメインであります「粉河寺」にお参りしてから、「お大師さんの井戸」を探すべく出発。夕方には所用があった為出発を早くした、と言っても約3時間ほどで着けるのでAM7時過ぎの出発であった。現地までは「京都縦貫道→第二京阪→近畿道→京奈和道」と高速道路でまっしぐら(^_^)v 紀の川東ICで下りてしばらく走ると「粉河寺」に着きました。

山門の門前町?にも有料駐車場がありましたが、境内にもあると言うことで、山門の右の通りを進み入って行くと、左側に大神社の大クスノキがいきなり目に飛び込んできました。

写真の撮り方が下手くそのため迫力が今一伝わらない写真ですが、根元の幹の膨らみが15m高さ25mの役1千年の樹齢のある巨木である。ご親切に「気軽に中に入り巨木に触れてパワーを頂いてください」と書いてあります。我が輩はこの時点では車に乗っていたのでパス。その奥にある駐車場に車を入れた。

駐車料金は、昔のバスの車掌サンが首から提げていた大きな「がま口」と言っても今時の若い人たちには判らないだろうが、そのオジサンが車が入って来る度に集金に走られている。一度に数台の車が入ってくると集金をした人が判らなくなりウロウロと、何故入り口に料金所を作らないのか疑問に思いながら・・・当然我が輩は自主的に持って行ったのだが・・・境内見取り図の右手に粉河寺の名称となったであろう長屋川沿いの参道を歩き始めた。粉河寺は桜の名所でも名が知れていたのでこの時期に参拝と御朱印を戴きに来たのであります。

粉河寺の成り立ちの二つの説話
「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。
2つ目の話は千手観音の霊験説話である。河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。
で、参道を歩いていると

仏足石なる物が目に入ってきた。
仏足石
お釈迦さんの足跡がきざまれ千輻輪相をあらわしその大きさは人徳の偉大さを象徴している
後ろの碑は江戸時代の傑僧願海上人の筆である
仏足石のお守りは本堂にてお受けください

ソコを過ぎると次に在ったのは

出現池
本尊千手観音の化身童男大士(童男行者ともいう)が柳の枝を手に白鳥に乗ってこの池より出現したと伝えられる。
右 馬蹄石
正面 童男大士像
左 三角堂
堂男大士は現世利益の佛として殊に病気平癒の霊験あらたかにして、祈願成就すれば、この池に鯉の放生をする習慣がある。
童の清き姿をあらわしし 御池の水のいく世すむらん
と言うことの池である。
次に出てきたのが
身代り地蔵尊

身代り地蔵尊のお守り並びにミニ地蔵尊は本堂にてお受け下さい

そして

中門をくぐると

遠くに?本堂の全容が見えてきました

その石段の左側には国指定粉河寺庭園が見えました。

巨石に蘇鉄を用いた庭園で南国を思い浮かべる作りの庭でした。説明書きには
桃山時代の枯山水の石庭で本堂前の左右の崖地に築庭され、日本の庭園の中でも先例のない様式である。その上、巨石を十分にかつ自由に扱いこなし、全く豪快な造形を呈している。枯山水庭園の珍しい形態を持った名園で、用いた紀州石は雑賀崎の青石(緑泥片石)、琴浦の紫石(紅簾片石)、竜門山の竜門石(蛇紋岩)の名石を用いている。
指定日:相は45年(1970)年4月23日
というものです。で、本堂は

大きなお寺の建物は何処とも同じですが威厳を感じます。これまた、本堂に入ると、

たまに出くわす古びた木造が安置されており、おそらく開祖様であるのだろうが、ある所では自分が治して欲しいところをさすったりしてピカピカに光っている仏像もある。ここの仏像は触ってはいけないのかそのようなことはなかった。
たしか写真撮影は禁止されていなかった・・・と、堂内を撮っていたようでようで

全景です。先ずはお祈りを唱え、御朱印を戴きに納経所に御朱印帳と掛け軸用を差し出して

書き終わるまで売店を散策、すると

例の身代わり地蔵のマスコットが売ってありました。

書き終わりましたので境内を散策、本堂の後ろを回ってみると

またもや巨木にでくわした。

紀の川市指定 自然保存木
指定年月日 平成9年4月24日
クスノキ「楠・中国名は樟」クスノキ科
(踞木地のクスノキ)
暖地性の常緑樹、古くから社寺などに植えられ普通20m以上になり直径も太く5~8mに達し、巨木が多いい。
樹皮は暗褐色で短冊状に縦に裂ける葉は互生して楕円形、葉を切ると樟脳のにおいがする。5~6月頃黄白色の花が咲き、10~11月頃8~9mm位の果実ができ球形で黒く熟す。
このクスノキ寺寺伝によれば「光仁天皇(宝亀元年、西暦770年)の頃、大伴孔子古はこの木に踞して下を通る鹿などを・・・」
と記されている。このクスノキはそ踞踞木地にあり、かなりの樹齢であると推定される。
ソコの境内には粉河産土神社が在ります。明治になり神仏分離により粉河寺から独立しているそうです。

宝亀元年(770年)に紀伊国の猟師・大伴孔子古が粉河寺を創建し、次いでその子の大伴船主が延暦2年(783年)に鎌垣庄内各村の氏神を勧請して粉河寺の鎮守社として社を建立した、それが当社の始まりであるという。
天正13年(1585年)に羽柴秀吉による紀州征伐にあい、粉河寺とともに全焼している。
粉河寺の本堂のすぐ奥にある鎮守社として、江戸時代には紀州藩主徳川家の崇敬を受けていたが、明治時代の神仏分離によって粉河寺から独立している。
1912年(大正元年)、旧長田村松井の丹生神社を合祀、同年粉河町東毛の大神社も合祀している。1919年(大正8年)には粉河町粉河天福神社も合祀している。
当社の祭りである粉河祭りは紀州三大祭の一つである。
(Wikipedia)
1959年(昭和34年)、裏山より経塚が出土している
帰りに見た番犬?番猫?

チョイと暑かったのか怠けている最中
で、一通り粉河寺を一巡して、次なる目的である「お大師さんの井戸」を探しにお寺を後にした。
道すがら桃の花が綺麗でしたので一枚パチリ・・・と

と、そこから紀の川の対岸を見た紀伊山地の山肌にも桜の群生らしき眺めが

コチラはどアップした様子、吉野山に対抗しているのかも・・・と

対岸の山々を眺めていると、桃源郷の里山を感じ、行ってみたい気持ちに駆られましたが、そこをジッと我慢をして「お大師さんの井戸」を探しに紀の川の畔にむかった。情報元にグーグルマップがアップされていたので、スマホで確認しながら近くまで

周りが田畑の中にある集落で、ゆっくり車を走らせていると

なんと歴史街道と書いた「大和街道」の石柱表示、昔はこの道が奈良へ通じる道で、今でこそ国道24号に変わってしまっているが、多くの人々が行き来をしていたメインロードであったようです。その通行した旅人の喉を潤したであろう井戸が

弘法大師常夜灯(左 いせ まきのを経 右 ○うやみち)のすぐ傍に発見できました。

こちらから階段を降りて

正面に弘法大師が祀られているお堂が安置されており

見るからに周辺の方が大切に保存されていることの分かるものであった。その元に

ステンレスの蓋がして飲み水として今も活躍している状態だと一目で分かります。中を覗くと透明な綺麗な湧き水が貯まり

杓子も置いてあり、この柄杓で水を戴くことにしました。全体像は相方さんがガンバッテ汲んでいるとこです。

この「お大師さんの井戸」の謂れが説明されている看板がコチラに

「お大師さんの井戸」伝説
その昔、なんともみすぼらしい、ぼろぼろの法衣を着たお坊さんが高野辻を通りかかり、庄屋の家の前に立って、
「誠にすまないが、水を一杯飲ませてはくれないか」と乞われたところ、その庄屋は、気の毒そうに、小さな声で
「家の水は金気が多いけど・・・」と言いながら、湯飲みに汲んで差し出しました。
飲み干した坊さんは、金気の水ではさぞお困りだろうと、錫杖でこの場所を突くと、不思議や、真水が湧き出ました。
その後このあたりの人々は、きっとあのお坊さんは弘法大師に違いないと言って「お大師さんの井戸」と愛称をしています。
また、このあたりは高い杉の木が生い茂っていて、それは寂しいとこでした。
昭和六年旧暦3月21日(弘法大師のご命日)字内(あざうち)の人々が浄財を集めて現在のように改修し、毎年新暦8月7日には井戸替えをしてお祀りし、、大師の徳を偲んでいます。
この湧き水は、夏は冷たく冬は温かく、日照りで字内の井戸が枯れても、この井戸だけは絶対に枯れたことがないという、不思議な井戸です。
昭和59年8月7日 (弘法大師ご入定1150年祭を記念して)
一つの水汲みの目的は無事達成できましたが、近くに同じような「お大師さんの井戸」がある事を偶然グーグルマップにて見つけ、そちらの方にも足を伸ばすことにして出発、マップにて見つけたので分かり易い所にあるはずと高をくくっていったのであるが、
その辺らしき所をグルグルと回っても見つからず

思いあまって、遠くで畑仕事をされているおば様に尋ねることにした

・・・と、おば様「地元の人間ではありませんが、おそらくあれではありませんか」と指さして教えてくれました。

遠くからは水が湧いてきているような設備ではないようなので、ダメ元で行ってみることに

行ってみるとやはり水汲み場所である。しかし、誰かが世話をしている様子はあるのだが、いかんせ周りが道路で、そのせいもありほこりまみれの様子。

しかし、花瓶には今日生けた新鮮な花が立てて有ります。地蔵産の前に板の蓋がしてあり、それを開けて井戸を覗いてみると

粉河の「お大師さんの井戸」から比べると水はよどんでおり、透明感もなく湧き水もおそらく周りの宅地開発、道路の新設等々により枯れかけているのだろう(^_^;)近代的な流れにより、寂しいが致し方ないことなのだろう・・・(T_T)
本来なら別コーナーでお届けするのが本筋なのですが、前回の播磨十水「篠井乃水」の事があり記録だけ残しておくことにしました。
最後に「弘法井戸の由来(通称:出水)」をお届けいたします。

打田町花野
昔 弘法大師が諸国を行脚(あんぎゃ)して当地に来られた
夏のこととて余りにも暑く、のどがかわいたので水を求められたが、辺りには水がなく、だれも恵んでくれる者がなかった
ところが、或る老婆がわざわざ遠くまでいって水を汲んできてくれた
大師は大変よろこび老婆の慈悲深い心に感心して、持っていた錫杖で地面を突いたところ、不思議にもそこから水がコンコンと湧き出てきた
これがこの井戸の由来で、この井戸はどんな日照りでも清水が湧き出てきて涸れることがない。
そして今も花野の人々の生命を守っている
昭和61年十月吉日
で、粉河の「お大師さんの井戸」の水評価gは
コーヒーの色が濃くでた珍しい水であった。初めて飲んだときは渋味を感じたが、日が経つにつれまろやかなコーヒーになっていった。慣れたモカも
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は
花野の出水の場所も
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