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NO368:昭和の名水百選「三井水・清浄水」

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吉祥水を汲み終えて、紀三井寺の西国二番札所の御朱印を戴きに向かった。
裏門から中腹までの駐車場へ上って行きましたが、結構急な坂道でしたがコンクリートの道で車も難なく上がりきりました。
駐車場へ着いてビックリ!エレベーターが設置してあるではないか
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中腹といっても正門の方へ行けば石段がそびえている。自ずとエレベーターを利用することに
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本堂がある境内に上ってきました。そこから見る和歌山市内の一望
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先ずは御朱印を戴きに本堂へ
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紀三井寺には扉はなかったので5:00時になってもお参りすることは出来ますが、御朱印の受付はPM5時までなので急がなくてはと・・・思わなくても、今回は時間には余裕があったので順番を待って書いて頂きました。
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紀三井寺での一つの目的達成ということで名水を汲む前に境内を散策、取りあえずあの大きな近代的な建物が気になっていたのでそちらの方へ
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納骨堂とのことで、宗派を問わず納めることが出来るのだそうです。仏教の「慈悲の心」を具現化するものではないかと・・・
で館内に入ってビックリ仰天
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ジャンボ金ぴかの「大千手11面観世音菩薩」立像が迫ってきた(T_T)何でも総漆金箔寄木立像では日本最大の観音様だそうで、紀三井寺のご本尊を現代風にしたものではないか・・・な?と思いながらくぎ付けにされてしまった。
私心には、余りありがたみはわかない仏像であるが、これが年月が経てば又有り難くなるのかも(?_?)
もう少し境内を散策、神仏習合の鳥居が
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この鳥居の縁には
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簡単に書くと
  御勧進 三社権現前石段新設鳥居
 大鳥居:限定三基  御勧進額一基 100万円
  鳥居:限定30基  御勧進額一基  60万円
       で、完済致しました  とシールが貼ってありました。
伏見稲荷の千本鳥居なども、信者サンからの寄進で経っているようです
鳥居をくぐって石段を登り詰めると
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三社権現の祠があり、その横に何かイワレノ有りそうな「春子稲荷大明神」の祠が
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その前にはイワレノ書いた看板が立てて有りました
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春子稲荷の由来
凡そ400年の昔、羽柴秀吉による紀州征伐6万の大群は根岸寺、粉河寺を焼き討ちにし紀三井寺に迫った。
丁度その頃当山観音堂に仕えていた春子という20才の美女が突然須弥壇のなかから白狐の姿となり、身をひるがえして敵の軍営に赴き霊力を持って武将を威服し先鋒の將羽柴秀長から「焼き討ち禁制」の書状を得て紀三井寺及び在所を戦火から救った。
人々は危難避け春子稲荷としてここに祀った。
という民話であります。
さらに詳しく、和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」にさらに詳しく書いてあり、内容も一読の値打ちありと思い載せておきます。
 見あぐれば 桜しまうて 紀三井寺

 貞享五年(一六八八)。高野山から和歌浦、そして紀三井寺へと足を急がせた芭蕉。だが、はやる心をよそに、紀三井寺の桜は、もう散り急いでいた。芭蕉の眼を見張らせ、落胆させたほど、紀三井寺の花の季節は早かった。

 関西の春は、紀三井寺から~。人々は、いまもそういう。その花どころ紀三井寺の広い境内では、すでに桜花が舞っていた。
 二百三十段にも及ぶ長い石段を、息を切らせながら登る途中も、ようやく境内へたどりついたときも、老桜が、若桜が、まるで散り急ぐかのように、ヒラヒラと、数知れない花びらを落として……。
 紫煙が絶えることのない本堂前の泉水の、すぐわきの石段を登ると、ま新しい、小さな祠があった。すぐ前に「正一位 春子稲荷大明神」の赤いノボリが二本。多宝塔と三社権現に狭まれた稲荷社は、昭和五十七年の初午の日に聞眼法要をしたぱかり。
 木の香がさわやかな祠の、銅板ぶきの屋根にも、白い花びらが散り敷いていた。
 「寺の一大危難を救ったとして、一宇のお堂を建てまつったのがはじまりです。戦後、弁財天のかたわらへ移されたんですが、高くて不便なところで、お堂の手入れも行き届かないもんで、あそこに移したわけです」
 案内を乞うと、気がるに足を運んでくれた初老の僧。境内の茶店で、名物の甘酒を飲みながら、親切に説明してくれた。
 それによると、この「春子稲荷」は、天正十三年(一五八五)の秀吉の紀州攻めの際、白狐に身を変えて紀三井寺を兵火から守った、春子という娘~牝狐をまつるという。
 この年四月のはじめ。ウンカのような秀吉の大軍は、根来寺(那賀郡岩出町)を焼き払い、太田城を水攻めにしたかと思う間もなく、どっと紀三井寺のあたりへ押し寄せてきた。

 「この寺も、ついに焼かれるか」
 寺を預かる法橋徳順は、僧兵を率いて奮戦するわが子、平太夫の無事を析りながら、静かに経を唱えはじめた。だが、その間にも血にまみれ、深手を負った僧兵たちが、続々と引き揚げてくる。やがて、平太夫も抱きかかえられるようにして運び込まれた。
 そのとき、人目もはばからず、大声をあげて泣き伏した女がいた。観音堂に仕える春子だった。
 春子が観音堂にこもったのは、平太夫が息を引き取ったとき。それから、どれぐらいたったのだろうか。それまで間こえていた春子の、読経の声が途絶えたかと思うと、突然、一匹の白狐が堂から飛び出し、まだ、ときの声の続く戦場へ走り去った。
 二日後、秀吉軍の攻撃はピタリとやんだ。いぶかしがる僧兵たちの間で、間もなくこんな噂が立ちはじめた。
 「どこかの娘が、敵の大将のところへ飛びこんで、どうか寺を焼かないで~と嘆願したそうな。そのけなげな姿に、秀長が感激、紀三井寺を討つこと、まかりならぬという触れを出したとか…」
 噂の通り、秀吉軍の陣中のあちこちに「寺への放火狼籍まかりならぬ。違背する者は厳罰に処する」
 という立て札が立てられていた。
 村人たちは抱き含いながら、戦いの終結を喜んだ。いかつい僧兵たちの顔は、どれも涙で光っていた。
 そのだれも、秀吉に直訴した娘が一体だれなのか、知らなかった。しかしみんな、いつとはなしに、その娘こそ、堂から飛び出した白狐だったのでは~、いや、春子だったのでは~と思い込むようになった……。

 祠の背後の名草山の古い石段を登りきったところに弁天堂があった。その左手を回ったあたりの、小さな台座は、遷座するまでの春子稲荷の跡だった。養銭箱からこぼれたのだろうか、青いサビを浮かせた十円硬貨が、そこここに落ちていた。
 その台座から望む和歌の浦の光景は、まさに一幅の絵だった。春子が身を賭して戦場に赴いたのは、こんな日ではなかったのだろうか……。
 見下ろす山の斜面も、境内も一面、白い桜花にいろどられていた。
以上
そのほか「護国院鐘楼」重要文化財(安土桃山時代1588年)
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重要文化財:多宝塔(室町時代1449年)
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等、境内の上層部にある建造物を見終えて、231段もある石段を降りていくと清浄水と書いた小屋が見えた。
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しかし周りを見渡したのだが汲めるところがない、お堂も扉はかたくなに閉じられており、途方に暮れていると、相方さんが一段下の方からここなら汲めるよ~と声がした。行ってみると
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お堂の中に井戸がありそこから水が流れ出ている様に見えるのだが、その下に瓶が置いてありソコに貯まった水がコチラの蛇口から汲める仕掛けになっていました。
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と言うわけで二つ目の「三井水・清浄水」をゲットすることが出来ました。
「三井水・清浄水」の独断と偏見の水評価は
まろやかで美味しいコーヒーが飲めました。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (*^_^*)でした
詳しい場所




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NO367:紀三井寺の「吉祥水」

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西国三十三番札所巡り、観音霊場第二番札所となる紀三井寺の「御朱印」をもらうべく和歌山市を目指して紀伊半島を一周していくわけですが、その前に白浜の「アドベンチャワールド」のパンダをどうしてもみたいという相方さんの御要望に応えて寄ることにした。
古座川の一枚岩から、なんだかんだで予定どおりのAM10:30分ゴロには着いてしまった。ホントは無理かもと思っていたのだが阪和自動車道も部分的に開通していたおかげであった。
アドベンチャワールドに到着
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見るからに広大な駐車場にも拘わらず8分方埋まっていた、コンナ沢山の車を一堂に見るのは初めてである。開園時間が10:00時だから、まだ30分少々しか経っていないのだが後ろの駐車スペースにしか置けなかった。
チケットを買って入園
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パークガイドを見ると想像してた広さよりだいぶ広く、1日居ても回りきれないいろいろな動物のコーナーがある。「おっさん、おばはん」の目的はパンダをみることだが、滞在時間の関係からして他のコーナーに行けるかどうかといったところ、入園ゲートをくぐり歩いて行くと遠くで人々が群がっている、その先には目的のパンダくんが・・・
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相方は一目散にその群衆の中に隠れてしまった。我が輩は歳も歳なのでゆっくりと、しかし愛嬌のある動物である。見ていて飽きの来ない可愛い動物である。
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その横にはパンダラブというパンダの生活空間の建物があり、この中に入って数頭のパンダも見学できます。
コチラは並んでの入場、今時のこと密にならないように人数制限ありの見物であった。
こちらに住んでいるのは四頭
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お姉さんが昼の食事になるササの付いた竹を持ってきて
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美味そうなところを探して
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パンダラブの建物から出てくると、天気が良かったのでパンダにミスト
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パンダも気持ち良さげに食事中、まさにパンダ様々・・・で、もう一ヶ所別のところにもパンダを見れる場所があり、コチラは人の数も少なく穴場なのだが、パンダも知ってかどうか判りませんが
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だらけた格好でお出迎え、コチラはお昼寝モード
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ブリーディングセンターのパンダはみな「ずぼら」なようで隔離されているのかな?・・・・(^_^;)
この近くはマリンワールドの区域になっていて、丁度イルカショーが終わったところで、
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館内はガラ~ンと、イルカがノンビリと・・・コチラは次の訪問地へ行かなければならないのでこの辺でキリをつけて出口方面へ、途中撮した白頭ワシ
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帰ってきてからニュースで、とりの名前は忘れたが、園内から鳥インフルエンザに感染した鳥が出たとか出てないとかでアドベンチャーワールド一週間臨時休園した・・・と、相方サンと1週間遅ければ目も当てられなかった・・・と胸をなで下ろしていたのでありました。まぁ園内くまなく見て遊ぶには1日ではたらない広さと内容のテーマパークでありました。
我々はそれから三井寺のある和歌山市内へ移動1時間弱で市内へ到着、遠くの山の中腹には三井寺の建物と思しきものが
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紀三井寺(きみいでら)は「西国三十三所観音霊場第2番目の札所」であり、昭和の名水百撰「紀三井寺の三井水(きみいでらのさんせいすい)に選ばれている名水の湧き出ているお寺である。お寺の名前の元となった、三つの湧き水が出てきている所のお寺として名前が付いた。
紀三井寺の歴史
 紀三井寺は、今からおよそ1250年前昔、奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。
 為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。
 そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山中腹に霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。  上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三礼のもとに刻み、一宇を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。
 その後、歴代天皇の御幸があり、また後白河法皇が当山を勅願所と定められて以後隆盛を極め、鎌倉時代には止住する僧侶も五百人を越えたと伝えられています。江戸時代に入ると、紀州徳川家歴代藩主が頻繁に来山され、「紀州祈祷大道場」として尊崇されました。
 正式には「紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさんこんごうほうじごこくいん)」という当寺の名称を知る人は少なく、全国に「紀三井寺」の名で知られていますが、この紀三井寺とは、紀州にある、三つの井戸が有るお寺ということで名付けられたといわれ、今も境内には、清浄水(しょうじょうすい)、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)の三井より清水がこんこんと湧き出して、年中絶えることがありません。(紀三井寺の三井水は昭和60年3月、環境庁より日本名水百選に選ばれました)
 西国三十三所観音霊場第2番目の札所である当寺は、観音信仰の隆盛に伴い、きびすを接する善男善女は数えるにいとまなく、ご宝前には日夜香煙の絶え間がありません。
 特に、ご本尊・十一面観世音菩薩様は、厄除・開運・良縁成就・安産・子授けにご霊験あらたかとされ、毎月十八日の観音様ご縁日を中心に、日参、月参りの篤信者でにぎわいます。
 春は、早咲き桜の名所として名高く、境内から景勝・和歌の浦をはじめ淡路島・四国も遠望出来る紀三井寺は観光地としても有名で、古来文人墨客にして杖引く人も多く、詩歌に、俳諧に、絵画にと、多くの筆の跡が遺されています。
 平成29年、日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」の構成文化財の一つに当寺が加えられたのも景勝地としての歴史に由来します。令和元何5月には、西国三十三か所巡礼道が「1300年つづく日本の終活の旅」として日本遺産に登録され、当寺は二つの日本遺産の構成文化財となりました。
 紀三井寺は以前、真言宗山階派の寺院でしたが、昭和26年に独立し現在は、山内・県下あわせて十六ヶ寺の末寺を擁する救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)の総本山となっています。
で紀三井寺に着きました。
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楼門をくぐると閻魔大王の石像が迎えてくれますが・・・先ずは車でお寺の駐車場に行ける裏門からやく100m行ったところに出ている「吉祥水」をもらいに行くことにした。
昔はお寺の境内だったのだろうが、今は住宅街の一角になっていました
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この地蔵サンの祠が目印で、この細谷を入って行くと石段が付いていました
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その石段をさらに登って行きます
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到着(^_^)/
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・・・にしても紀三井寺の名の元になった施設、お寺ももう少し管理を行き届かせたら・・・と思う現状です。まぁそれでも水は汲んで帰りましたけど(^_^;)
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   吉祥水の由来
当吉祥水は西国二番札所紀三井寺三井水(清浄水、楊柳水、吉祥水)の一つで、寺名由来の貴重な物証です。
名草山の中腹より湧き出て古来より絶えることなく
「吉祥天女の体内より管り給う」霊泉として「飲むもの即時に煩悩を消滅する」「瀧登りの水」と言い伝えられて来ました。
慶安庚寅年(1650)
紀州徳川初代藩主頼宣公、儒者李梅渓に命じ整備(水槽、銘刻、石桶、敷石等は当時のもの)しかし終戦前後の天過禍で土砂崩落埋没
昭和42年2月14日 
和歌山市文化財(名勝)指定
昭和55年12月21日
付近の宅地開発を機に三葛地区有志により現地確認 水槽発掘 守る会(現保存会)結成○山内探索の結果 地下水脈発見導水に成功
昭和58年3月6日
浄財勧募、階段、水汲場、湧水点等整備復興、吉祥天女像を安置落慶、開眼法要
昭和60年3月28日
環境庁、全国名水百選に選定
平成5年10月
県、市より「文化的ふるさと環境整備補助事業」認定、又、三井水保存会十周年記念事業の決定を受け平成6年3月改修工事完了す
「伝統の吉祥水を守る」保存活動御御協力をおねがいします。
  汲みてみん清き流れを三つの井の  みなそこふかきしるべなくとも
    (紀伊御詠歌)
 平成6年3月6日                     吉祥水保存会

この文集を読む限りお寺の「三井水」の関心はいずこへ・・・と思うのは私だけだろうか(?_?)

「吉祥水」の独断と偏見の水評価は
ペットボトル残り少なく1本しか汲めなかった為、少々コクを感じて飲めたぐらいの感想でした
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は




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