NO332:乳の井戸

今回時間が急に空いたモノだからどこかイイところがないかいナ・・・と探していると、気持ちをそそる名前の湧き水を発見!
その名も「乳の井戸」このような「乳」を扱った名水はたまにあるのだが・・・ということで水を頂きに行ってきました。
情報元での説明では八幡宮の近くにあるとのこと、住所は書かれていたのでそのところに在る八幡宮を目指して出発。
加西ICで下り、住所地で在る谷町へ向けて走る。走っていると

五百羅漢の看板、うっ!これは面白そうだ、後ほど寄ってみようと素通り。そこからチョイと走ると

高速道路の下をくぐって山側へ、その道をまっすぐ上っていくと

それらしき場所に到着、先ずは八幡宮へご挨拶・・・ということで車を置いて歩いて出発。
小屋の横手を通り、「乳の井戸」である事を確認し

お地蔵さんも横目で見ながら

石段へ到着。下界の風景は

で、石段を上りはじめると例の獣の柵に塞がれて

例のごとく開けて、締めて上ります。入ったところの鳥居には

寛政庚申9月吉祥日と彫ってある。江戸時代の作のようだ。
結構な石段を登り切った所に八幡宮

思いより立派な社の造り

本殿と拝殿のあるモノで在った。御水を頂くので賽銭を少々で、引き返し下界まで下りてきてハイパチリ

身近な下界の風景。で、「乳の井戸」へ

ここも立派な井戸の小屋が作ってあります。地域の人たちに大切に守られてきた事が伺える建物です。
「乳の井戸」の案内看板には

八幡神社の麓にあるこの井戸は、昔から共同井戸として使用されているが、この井戸は石垣の間から乳のような白い水が湧き出し、しばらくすると澄んだ水となる。この水を「乳の水」と呼び、母乳の出の悪い夫人が八幡神社に詣って、この水を持ち帰り、ご飯を炊くと必ず母乳が多く出るとの言い伝えから乳の井戸と名付けられたものです。八幡神社はこの上にあります。
で、その井戸がこちら

気持ち少し白濁している感じの水が溜まっており、この事なのだろうかと思いながら汲ましてもらいました。我が輩が思うに、硬水の原因となる一つに石灰岩のカルシュウムがにじみ出ているのではと?
水ももらい、来たときに気になっていた五百羅漢を見学に出発
、入って行った路地を一つ間違えて、おかしなお寺の門前に入って行った(酒見寺さがみじ)

その酒見寺前に近辺の案内図が立っていたので

少し離れた場所だったので、再度元の道に出て、五百羅漢の案内板の出ている路地を入って行くと駐車場があり

天台宗:北栄山 羅漢寺 大正12年3月 の石門が彫ってある入り口へと進んできた。その横には

北条の五百羅漢(兵庫県指定重要文化財)の説明が書いてありました
所在地:加西市北条町北条(羅漢)
管理団体:五百羅漢保存委員会
指定年月日:平成30年3月20日
造立時期:江戸時代初期(17世紀前半)
古くから、「親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢の堂に御座れ」とうたわれ、表情の異なる石仏の中に、必ず親や子に似た顔があると言われています。素朴で表情豊かな野の仏として多くの人に親しまれています。
地元で採れた高室石(凝灰岩)の角柱状石材をを加工した羅漢立像が大半を占めるほか、釈迦三尊像や大日・阿弥陀如来像など中心となる本尊仏の他、仁王像や造立に関与した高瀬家の供養者座像など、459体で構成されています。
17世紀前半の酒見寺再興にあわせて信仰・供養のため造立されたと考えられています。中世から近世初頭における寺院の再興など、播磨における当時の社会的な動向を検討する上で、貴重な石仏群といえます。
また、その作風は江戸前期の市内石仏の代表例になっています。
平成30年7月 加西市教育委員会
というモノであります。ついでに
羅漢の意味(羅漢とは)
羅漢とは、悟りを開いた高僧のことです。
サンスクリットのアルハンの音訳を阿羅漢として、それを略称にしたものが羅漢です。
釈迦の直弟子のうちでも位の高いものは阿羅漢で、弟子の中でも最高の階位としていました。
羅漢とは、煩悩をすべてなくした人のことで、小乗の悟りを得た聖者のことをいいます。また、大乗仏教では、小乗の修行者という意味で否定的に使うこともあります。
羅漢の実際
羅漢は修行の過程で果得した尊称で、資格を表す言葉でもあります。そのため「羅漢である仏が~」という表現もしばしば目にします。
羅漢にはこれ以上学ぶ必要もないことから「無学位」とも呼ばれています。
羅漢の下には、不還果、一来果、預流果といった尊称が続きますが、羅漢より下位にあたるこれらの修行過程は「有学」と呼ばれます。
羅漢を自称、詐称する修行者も多かったため、故意、過失を問わず羅漢でないものが羅漢を名乗ることを「大妄語」とよんで「四波羅夷罪」とし、僧団から追放していたといいます。
参道に入り右手に受付

関係資料やお土産の販売、写しておいたと思っていたらこれだけ
そこから小道を

歩き聖天堂の前を通り

林の中を又歩き

坂本勝氏の歌碑・・・元兵庫県知事らしい

五輪塔などの野仏を見ながら

開けた・・・と思ったら

石仏・石仏・石仏・・・・・・・真ん中が

又その端が

左端には

来迎二十五菩薩というらしい石仏
右端の方は

我が両親の顔は探し損なってしまったが・・・

本堂と庚申堂を紹介

出ようとすると、お寺が説明する五百羅漢の看板が目に入った。教育委員会の説明とはまた、違った趣があったので

北条石仏(五百羅漢)について
茫洋とした過去の歴史のなかで深い謎を秘めてきた北条石仏群、切れ長な眸(ひとみ)にたたえた憂愁のかげ、なにやらその謎を秘めているかのようです。
この石仏を訪れる誰しもが「いつ頃、誰が、何のために、これを造ったのをしろうとします。
しかしながら、これに答えうる史実も、資料も、たしかな言いつたえもが、何ひとつとして存在しないのです。
石彫りの手法としてはきわめて拙(つた)なく、それゆえに、その稚拙な素朴さを愛し、何か郷愁めいたあこがれをさえもって、
人々はその真実を探ろうとするのですが、訴えるような眸をみせていて、しかもこの石仏たちは、黙々として何事をも語ろうとはしません。
この石仏の謎は、あるいは永遠の謎であるのかもしれません。またそれでよいのだとも思います。もともと、石仏を造立することは、亡き先霊を弔う純粋な信仰の表れであります。この石仏群にしても、何百年かの昔(慶長15年・17年在銘の遺品数個あり)戦争か飢餓かで、無残な死を遂げた人がたくさんあって、それを当時の縁故の人、もしくは、のちの篤信の人々が、やむにやまれぬ信仰心の発露から、これを造立して、その惨死者たちの霊を追弔供養したものと考えては単純すぎるでしょうか。
彫技ははたとえ稚拙たりとは言え、石仏五百を造立するために、そこにこめられた、哀しくも美しく澄んだ信仰心に思いおよぶときに、しんとひきしめられるほどの、ひたすらな古人の純粋さにおののかずにはいられません。同時に、今は、永い風霜にいたんだ石像遺品にすぎないとしても、幾百年まえ先祖供養を志して、これの造立悲願をかけた人の心に参入し、静かにこうべを垂れ、しばらくその昔に思いをめぐらすほどのことがあってほしいものだと思います。
ともあれ、色はさび、姿は風化して趣とみに深いこの石仏を「野趣ゆたかな野の仏」として、閑寂の昔を偲びつつ鑑賞して頂き、風変わりな珍しい石仏であったとご留意していただければ幸いと存じます。
「乳の井戸」の水の独断と偏見の評価
井戸水は綺麗だとは言いがたかったが、コーヒーにして飲むとほどよいコーヒーであった。
(^-^)/ (^-^)/ (^-^)/ (^-^)/ \(^o^)/
詳しい場所は
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