NO300:白山平泉寺御手洗池の源流「平清水」

越前大仏を見学?して、今日勝山に来た本命の白山平泉寺(ひらいずみでら)の白山神社に移動して行った。
大仏からは車で10分もかからない所にあり、苔の境内が名勝となっている苔寺ならず苔神社と呼ばれている。
奈良時代の717年「泰澄」(たいちょう)が白山に登ろうとして開いた一大宗教都市(施設)その開山の元となった池、「平清水・平泉」現「御手洗池」の湧水が取水出来たら・・・・・と考え予定を組んだのであった。
で、駐車場へ着きました。

吾輩が止めた駐車場P1でしたが、もう少し上にもありました。

駐車場の脇に「白山神社の由緒」が書かれた案内板

平泉寺・白山神社
福井・石川・岐阜の三県にまたがる白山(標高2702m)は、富士山や立山とともに古くから信仰の山とされてきました。「越の大徳」といわれた泰澄大師は、養老元年(717)この地の「林泉」(御手洗池)で神託を得て白山を開き、平泉寺を創設されました平泉寺は中宮平泉寺とも呼ばれて白山信仰の中心地となり、越前馬場として栄えるようになりました。中世には、白山神社境内を中心に48社36堂6千坊が立ち並び、また、多くの荘園を持って強大な勢力を誇っていました。源義経・弁慶らの一行も、この平泉寺へ立ち寄ったと伝えられています。ところが一乗谷の朝倉義景が滅んだ翌天正二年(1574)一向宗徒の一向一揆勢が乱入して、一山ことごとく焼失してしまいました。11年後顕海僧正が平泉寺を再興され、江戸時代には平泉寺から白山にいたる広い地域を、平泉寺の白山社領として支配しました。明治五年(1872)には白山は石川県になり、平泉寺の支配から離れることになりました。これより先の神仏分離令により、明治三年(1870)平泉寺の寺号を廃して白山神社になりました。
参道の石畳、菩提林の老杉、白山の神が現れたとされる御手洗池、大拝殿の礎石、本社前の大石垣は、全盛時代の平泉寺の面影を残しております。また、六百数十年前に建てられた楠木正成の供養塔、永平寺奉納の石灯篭、拝殿の奉納額などが歴史の古さを物語ります。社務所の「旧玄成院庭園」は室町時代末期に細川高国により造園されたといわれ、国の名勝にしていされています。
白山国立公園の一角をなす白山神社の境内一帯は、国史跡「白山平泉寺旧境内」となっています。杉木立に囲まれ、青苔におおわれた静寂な神域は、白山信仰の聖地として、今なお多くの崇敬を集めています。

上側の駐車場に近い所に、「白山平泉寺歴史探遊館」まほろばという、資料館および綜合案内所の様なものが在ったので、簡単に見学「おもに白山信仰の説明や平泉寺近辺で発掘されたものの展示等々でした。撮影は控えたので写真は有りません。
で、案内所で湧水が出ていると聞いてきたのですが、どの辺でしょう・・・と尋ねてみると、事務所の方々そんなものは聞いた事ありませんとの返事・・・アチャ~((+_+))
まぁ、今日は有る程度水も汲めているし汲めなかってもいいか・・・と思いながら境内の方に足を進めた。

右上に見えるお寺は「顕海寺」

白山神社社務所『玄成院』の代々の位牌所

ココが白山神社の社務所で国の名勝「枯山水の庭」があるというので入って見る事に、総て白山神社は拝観料は取っていなかった。
入ると、正面に受付があり、奥さまらしき老婆が受付をされて「御朱印やらその他の販売をされていました。チョイト無いと言われていた湧水の出ているところが境内に在るのか尋ねてみたら、な!なんと有るという!!、いわく、社務所の少し上に池が有るので、そこに注いでいる水が湧水なので行ってもらえば分ります。との事、奥さま曰く「先代の親から聞いた話ですが、近くの赤十字病院に入院されていた方が、そこの水を汲みに来て病気が治った。というのを聞いていた、良い水ですよ」との事
まずは、お庭を拝見と

旧玄成院庭園
昭和5年10月に国の名勝に指定された本庭園は、享禄年間(約460年前)に室町幕府の菅領・細川武蔵守高国により作庭されたと伝えられ、現存する庭園としては北陸で一番古い庭である。様式は枯山水。築山の正面小高い所に一際高く立っている石が本尊石で、この石を中心に渦巻状に石が配置されている。池の左手奥は滝を模した石組で、池の右に鶴島、左に亀島を配し、亀島の近くには石橋も架けられ、池の前には宝舟に形どった一位の木があり蓬莱の趣を示している。なお庭の左隅の五重の石塔には永享6年(1434)の銘があり、沙羅双樹とともに好古の客の喜ぶところである

これカモ、

なんせ、説明書きは写真を撮るだけとって、帰って来てからじっくり読むため、写した写真とずれてしまう事が往々にしてあるのである。
で、そこを出てて池の方に

この細長い参道が拝殿まで続くのである。振り返れば

という参道を歩いて到着。ここを入るのかな

御手洗池(平泉)と表示してある。ここ、ここ・・・と入ってみる。

御手洗池であるが、光が差し込んでよく見えない(~o~)
で、正面から

鳥居が在るので正面だと思うのだが、こちらの写真もよ~くわからない。まぁ、沼の様なありふれた池でした。

御手洗池(みたらしいけ)
泰澄大師は養老元年(717)白山登拝の途中この林泉を発見され、大師の祈念に応じて泉の中の影向石(ようごういわ)に白山の大神が出現され、「神明遊止の地なり」とのお告げがあったため、当地に社を建てて白山の神を奉斎されたと伝える。当社発祥の地であり、「平泉寺」や「平清水」(平安時代の呼称の一つ)の名の由来はここにある。神泉は今もって絶えることなく湧き出ている。
池の東(御本社寄り)に聳(そびえる)三又杉はこの時大師が植えられたものと伝え、一千二百数十年を経て健在であり、幹は途中から三本に分れ白山三社をかたどる形となっている。当社のご神木であり注連縄が張られている。

残念ながら、注連縄を撮るため上部の三又は写っていなかった((+_+))
で、肝心な御手洗池の源流はその横の方にありました。

立派な御影石の石柱で囲ってアリ、その中は

綺麗な水が溜まっており、写真の上側の角の辺りから湧き出ているもようでした。水もソコから汲んできました。
尚、源流の呼び方は「林泉」「平泉」「平清水」と呼び方があるみたいで、タイトルには「平清水」を使いました。
汲んだ後、参道に戻らず、そこから獣道みたいな裏道を行く事に

階段を上ると

杉木立の中、一面に苔の大地。深閑とする幽玄の世界。パワースポットにうってつけの世界。
遠くには。青い屋根の拝殿が見え隠れ、そんな中を散策気分で拝殿方向へ

午後の陽光と杉木立の静寂なひと時、何物にも代えがたい時空をゆっくりと拝殿に向かって
参道へと

欲を言えば、もう少しカメラが高価であれば・・・と、吾輩の技術の無さをカメラのせいに・・・
何はともあれ、拝殿の右の境内

境内の左側

後ろを向いて

拝殿の前方、境内の雰囲気を分って頂きましたでしょうか(^o^)/

拝殿 安政6年(1859)の造営
天正2年(1574)兵火にかかって焼失する以前は、正面45間という我国最大の拝殿であった。今も左右に残る巨大な礎石が規模の雄大さを物語っている。その中央部に再建された現在の拝殿は江戸時代の寄棟造り榑葺(くれぶき)の簡素な建物であるが、天平時代の風情をよく残していると言われる。
正面入り口にかかっている「中宮平泉寺」の額は一品天眞親王の筆。拝殿内の絵馬は越前藩主松平家以下の奉納にかかり、桃山以降の逸品である。
『どれもこれも撮影せず』(~_~;)
紹介される拝殿のポイントで、相方さんの記念撮影・・・・・小さめに・・・

そして、拝殿の後ろにはご本殿

石段を登り本殿で参拝

お賽銭を入れて、ふと上を見ると、なんと立派な龍の彫り物

左にも

対の龍、何か意味があるのかも

御本社 寛政7年(1795)の造営
御祭神 イザナミノミコト。現社殿は越前藩主松平重富公による再建で総欅の入母屋造り榑葺。昇り龍・降り龍の丸彫、壁面の浮彫などの彫刻も秀逸で、奥越には珍しい華麗な建築である。
御本社を中心に右に別山社、左に越南知社を配するのは、白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているからであり、このように白山三社の神々を勧進することは当社創建以来の姿と思われる。今は失われているが、中世から近世には、さらに金劔社と加宝社が加えられ、五社が整然と立ち並ぶさまは壮観であったと思われる。
と本殿から見た拝殿の後ろ

チョイト違いすぎると思うのは吾輩だけだろうか(?_?)
御本社の右端から今で言う奥の院への鳥居をくぐり

参道を上って行くと

楠木正成のお墓

説明書には

三之宮 明治22年の改築
安産の守護神として信仰が厚く、そのために当社は昔から安産の御守りと岩田帯を領布している。
楠木正成公募塔 延元年間(約650年前)の建立
当社は後醍醐天皇の建武の中興に際して、北条氏の一族を大野郡牛ヶ原に攻め滅ぼすなど、官軍との関係が密接であった。古い縁起によると楠木正成公甥恵秀律師は平泉寺の衆徒の一人で、延元元年(1336)当社三之宮に参籠していると夢に大楠公が騎馬姿でで現れ、不思議に思っていたが、やがて大楠公湊川戦死を聞き知るにおよんでそれがまさに夢見の日とわかり、その場所に五重の石塔を建てて菩提を弔った。と伝える。周囲の石柵と参道は寛文8年(1668)越前藩主松平光道公の奉納によるものです。
こちらが「三之宮」です

という事で、平泉寺白山神社の参拝は一通り終わりましたが、平泉寺が中世の一大宗教都市だった遺跡が残っているという場所を尋ねながら帰る事にした。
尚、この道を白山詣でに使用した「越前、禅定道」はここから始る。
下に向かって左に入って行き、境内の林が途切れた所からが、平成元年から発掘が始まって見つかったもの
まずは出て来たところ

誰かの怪しげな影も映っている道を登り、遺跡として発掘された「中世石畳道」

なだらかな斜面を階段状に造成した坊院跡(僧侶の住居跡)

横道も石畳道が配置され、坊院が多いい時で6千、僧兵8千もの数が生活していたとの事

当時の面影を再現した土塀、以前紹介した、近くに在る朝倉遺跡の土塀に似ている。
そしてどんどんと降りて行くと

若宮神社の大杉。岩屋観音の大杉を見た後であったので、感動も今一つというところ、しかし、こちらは一本ものの大杉「見る事一見の価値アリ」・・・で駐車場に帰ってきた写真が

マンホールの蓋であった(?_?)
昔は「平泉寺・ひらいずみでら」→いつの間にか「平泉寺・へいせんじ」となったらしい。
その他の逸話
自殺の名所で有名な東尋坊、平泉寺に平安時代いた僧の名前で、東尋坊から突き落とされたことに由来する。
「平清水」の独断と変形の水評価は
勝山出栗田多くは「軟水」であったが、ココの水は「弱い硬水」でありコーヒーもまぁまぁ美味しく飲めました
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は
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