NO280:大阪府柏原市の「清浄泉」(浄井戸)

新年2回目の水汲みは、大阪府柏原市に湧き出ている「清浄泉」へ行ってきました。
以前、信貴生駒スカイラインを走っていた際、信貴山という一大仏教寺院のパノラマを横目で見ながら、又の機会行ってみようと思っていた所、詳しくは「信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺」(しぎさん ちょうごそんしじ)と言うらしい。
本来は、所在地の天然水を探して頂いてくるのだが、奈良県平群町内に見当たらず、大阪川の柏原市に「清浄泉」という名水がある事を見つけ、そちらで水を戴いてくる事にした。
今回も、信貴生駒スカイラインを使って行く事にした。

地図で言えば、北から南まで全線を通れば、1340円かかり、生駒山山頂(遊園地)で二分されている。
当日は天候も良く大阪平野が一望できる良い日であった。

今回は、余り寄らず一直線で信貴山料金所へ、その近くの駐車場へ

正月明けの成人式連休の日曜日で駐車場に入るのにごった返しているかと思いきや、すんなりと入れて拍子抜け、まあ、それの方が良かったのだが・・・
その近辺の雰囲気は

ダム湖が谷底を覆っており

この赤い橋は、県道の橋で、境内に入って行くには、

こちらの開運橋と呼ぶ橋を歩いて境内に入って行きます。いかにも宗教色の呼び名である。
昭和6年に開通し「カンチレバー」と呼ばれる構造をしている。(カンチレバーとは片持ち梁の事で、梁の片方だけ固定されており、他方は動く構造の事)
戦前の上路カンチレバー橋はほとんど残っておらず、現存する橋では最古の物となり、国の『登録有形文化財』に指定されている。
この橋の中ほどで鉄骨の工事をされていたが

ここからダム湖めがけて飛び降りる、バンジージャンプのヤグラらしい。以前から営業されていたかどうかは定かではないが、もう少し暖かくなれば、賑うのかもネ。
境内に入ったところに境内案内図が

思っていたより広く、どこまで回れるか不安であったが、出発!腹ごしらえに「やきもち・みたらしだんご」の出店も

取り巻いているのは女性ばかり・・・と言えば叱られるか・・・も

堂々の神仏習合の世界,,参道を進んで行くと再度鳥居が

扁額には多聞天と書いてあり、毘沙門天と同じ言葉らしい。
ウィキペディアから
日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒天にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。
くぐるとジャンボ寅の張子がお出迎え

寅の関わりはこちらから(信貴山 朝護孫子寺HPからお借れしました)
今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。
そして、そこからそびえ立つ朝護孫子寺の本堂(下記説明文はHPヨリお借れしました)

醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。
しかし、毘沙門天王は仏教「四天王」の一つ、何せに鳥居の扁額に書かれているのだろう(?_?)
寅を過ぎると「赤門」

を入ってお寺の境内に
吾輩にはよく解らないのですが、信貴山には大きなお寺が三ヶ寺あり、「千手院・成福院・玉蔵院」千手院のHPでは、『塔頭(たっちゅう)形式とは、一つの本堂を多くのお寺(子院)が兼用する寺院形式をいいます。千手院はその中の本堂を持つ塔頭寺院』との事、境内ではそれらの寺々を廻る通路が碁盤の目?のように張り巡っており、吾輩は時計回りで廻る事にした。
総ては写真に収めきれていないのでご了承を(~o~)
通路の雰囲気を

綺麗に並べられた石灯籠を歩いて行くと

で、日本に二本しかない銀杏

千手の公孫樹 仏手白果 樹齢500年
樹の枝振りが千手観音の手に似て、又銀杏の形が仏の合掌される両手に似ているところから千手の公孫樹(いちょう)、仏手白果(ぶっしゅはっか)と名づけられた。中国産の品種で、日本では宮崎県高千穂の岩戸神社の境内にある一本だけとされてきたが、昭和58年7月学者により偶然発見された。日本で二本目の極めて珍しい巨木である。
写真が上手く撮れてない為立派な樹木に見えないのが残念(-_-)、ソコからの風景

日本一大地蔵尊と三重塔が見えます。境内に入ると結構目立ちます。
さらに少し進んだところにも

こちらは樹齢1500年との事

神木「榧の木」
今を去る1500年(西暦480年)の昔、日本の国は氏族制度で曽我一族と物部一族が政治の実権を握る為争っていた時代である。
時にこの地に一粒の榧の実から若芽が誕生したのである。それはこの榧の木であった。
それから百年後、曽我馬子は仏教の普及に努力せんとしたが、物部守屋はこれに反対し双方の対立抗争はついに長く苦しい激戦となった。
この時、聖徳太子は守屋討伐のため自ら陣頭に立ってこの地に進み毘沙門天王を感得され、その御加護で物部郡を降伏させ日本の仏教が栄える礎を築かれたのである。
以来、樹齢1500年の神木榧の木は世の有為転変を語らんとするや、ひたすら黙して語らず。

正面に見えるのは「正福院」の融通殿です。
詳しくはHPを見て頂くとして
祀られている如意宝珠(如意融通宝生尊)は、「融通がつく」とか「融通がきいた」と言う言葉の源の由来とされているらしい。
こんなモノも

中には大黒さんが祀ってあります。熱心に手お合わせておられる元には、見えにくいが金ぴかに輝いている打ち出の小槌が置かれ、撫でると願いが叶うという「撫で小槌」でそのために光っている様である。
こちらの銅像は

「寅大師」と言われ、
昔より大切なお金のことを「寅の子」と云います。この修行大師は別名「寅大師」と言われ、傍らに「撫で寅」があり、足を撫でれば出ていったお金が直ぐもどる、頭を撫でてはボケ封じ、牙を撫でては立身出世、尻尾を撫でては延命長寿のご利益があります。後述の「撫で小槌」ともども是非、「撫で」てご利益を受けてください。 (成福院HPより)
で吾輩は、寅大師に因んで之を買いました。

と言うのも、細かいお金がなく、お賽銭に使うために小銭を造りたかったのが本心であった。一通りお賽銭も撫でる所も撫でて、次なる三重塔へとくぐって行ったのでありました。

三重塔がある境内は「玉蔵院」となるようです。

「玉蔵院」の縁起は、
鎌倉時代、興教大師覚鑁(かくばん)上人がこの山に参篭された時、毘沙門天さまよりありがたい摩訶不思議な玉『如意宝珠』を授けられ、この寺に蔵められたことから『玉蔵院』と呼ばれるようになりました。
この石段を上っていると、おもしろい石像が・・・

石の光具合から大理石の像だと思うのだが、噛んでいる石は札束に似せている様子。それに硬貨が挟まれているとは・・・
で堂内(三重塔は玉蔵院融通堂と言う)に祀られている「如意融通尊」

撮影禁止とは書いてなかったので写しました。厨子は御開帳されていません。
この玉蔵院融通堂の後ろに日本一大きい地蔵尊が安置されているのだが写っていなかった。
この場所からの境内を見渡せば

遠くに本堂が見えますが、広さも判ると思います。
そして少し移動したとこでは

この石仏、なんなのかよく分らないが、多くの方が並び、熱心にお祈りされていました。
吾輩はそこまで熱心ではありませんので素通りして道なりへ。詳しくは「玉蔵院」

ここを通過して奥の院方面へ

鳥居が乱立する中を次第に山中へと

山登りがきついと分かっていてもツイツイなぜか足が向いてしまう。
なんだかんだと思いながらも残り三丁

「ひーはぁー、ひーはぁー」と上っていると、当然多くの方たちに追い越されていく。その中に真鍮の手提げポット(ここではそう言うらしい)をぶら下げて上って行く人に出会った。疑問に思い、休憩されている方に尋ねてみると
「麓の境内に在る水屋から、水の無い山頂の空鉢様(空鉢護法堂・奥の院)に水をお供えするために、備え付けのポットに入れてこの水を空鉢護法堂(奥の院)まで持って行かれるのです」のこと。
この世界も、御利益を得るためにいろいろな方法があるもんだと感心!
そして

残り二丁の石標、奥の院が近い雰囲気がしだした。
そうこうしてるうちに

福徳地蔵尊が祀ってある場所に、子の裏手には信貴城跡地の遺跡が

信貴山城 平群町指定文化財・平成五年四月12日指定
所有・管理:信貴山歓喜院朝護孫子寺
標高433mの信貴山雄嶽を中心とする山城で、東西550m南北700mに渡って120以上の郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世城郭。
空堀の切り遠し堀、土塁、門等の城郭跡が良く残り、特に高櫓跡は著名で、中世末、識豊期直前の山城跡として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡。
信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要所地として幾たびか築城が繰り返された地である。古くは天智朝における高安城中心城域となり、中世には護良親王(もりなか)が鎌倉幕府軍対抗拠点とするなど戦略的重要な位置にあった。
その後、戦国時代に木沢長政、松永秀久が築城入場し大和を抑える本格的な山城として整備される。
天正5年(1577)、松永秀久が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け50日間籠城、10月10日に落城。
その後廃城となる。
平群町教育委員会

伏見の「お稲荷さん」にある千本鳥居の様な所をくぐると「奥の院」に到着
全景は写せませんでしたが、堂内では一般の方が何かを唱えられていました。

水を運ぶポットがかかっていたのですが、写してなかったようです。
奥の院の周りには、小さな神社が?

や

面白いのでは

大きな石が安置されていた。何のイワレがある石なんでしょうか(?_?)
本堂には、展望台もアリ

下界が見渡せます。下界からは

展望台の赤い柵が見えます。
そして、奥の院から下って来て下界の境内に、

これが水屋で

柱に張り紙が「空鉢(くうはつ)さん」には水が有りませんので、お詣りの方は水をポットに入れてご持参のうえお供え下さい。
空鉢堂
張り紙の横に見える真鍮の入れ物がポットです。
どうも吾輩は境内を回る順路が反対だったようです。この水を板がいて帰ろうかと思ったのですが。奥の院にも持って上がっていないのに失礼にあたると思い今回は『泣く泣く』断念しました。・・・・が本来、湧き水ならお水に名前、例えば「閼伽水」と書いてあるのだが、そのようなものは書いてありませんでしたのでパス。
で、本堂へ

この石段を上ったところが「信貴山 朝護孫子寺」となります。

石段を上がり切った所から右の回廊を進むと

本堂の正面へ出ます。本堂の中は写真を写すのが気が引けるので、ここから

HPからおかれしました。『大般若祈祷が毎日行なわれている本堂は、文禄年中(1592)豊臣秀吉により再建、または慶長7年(1602)秀頼の再建とする説があり、定かではありません。後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。舞台造りとなっており、そこからは大和平野が一望でき、素晴らしい眺めとなっています』

老若男女それぞれスマホで写しておられます。吾輩は「水汲み」という大事な仕事が残っていますので、ここから引き返しましたが、本堂の中を巡る「戒壇巡り」HPから
『覚鑁上人が約800年の昔、当山において唯一納めたという如意宝珠がお祀りされています。本堂階下の暗闇の中を進んでいただき仏像にお祈りし、次に進んだところの錠前に触れてください。心願成就のご利益が大変あらたかです。是非ご入壇ください。』
との事です。
帰り際先程の石段の縁に、重々しい扉で塞がれている「閼伽水」が

レバーを開けて覗いてみようかな・・・と思ったが、バチが当たると怖いのでやめにしておきました。
石段からの境内の様子

そして帰路に
厄除け観音

と、銭亀善神

幸運の臼:子の臼は言うことなく、雲のつく石臼と言われています。「ウン!」と言って軽くつき、よい運を授かってください
そして、こんな石も

この石に腰を掛けると・・・
昔より下の世話にならないと、言い伝えられています。是非お座りください。
大本山 千手院
通路となっている、福授:三寅の胎内くぐり(父寅・母寅・子寅)

何が三寅なのか判らずじまいで出て来てしまい。帰る方向へ歩いていると、多くの人が集まって何か待っておられる様子

少し見物していると、山伏の方が信者さんに身体をさすって御祈祷されているように見えましたが。

「千寿院」での正月の行事「柴灯大護摩供」を1日~6日まで行われていたものでした。
ココを最後に「信貴孫子寺」の境内を後に目的の「清浄泉」がある大阪府の柏原市へと向かった。
大阪方面へ降りて行く道は狭く対向車が来ると、譲り合ったりして結構時間が掛かり、ようやく大和川沿いに出て来た。
プリントした地図を持って行ってたので、大体の方向は判ったのだが、昔の道を利用して宅地開発されているものだから、国道170号東高野道路から何本も車一台が通れる路地が山側へ伸びていて、どこの道へ入ればよいかコンガラガッテ判らなくなり、適当に入って行くもそれらしきものは無く、ちょうどゲートボールの帰りの老人にお訊ねしたところ筋が一本間違っているとの事、その方曰く「清浄泉」には以前は多くの方が汲みに来とられたが、最近は少なくなった」と残念そうに言われていた。
目標は石神社(いわ)の大木との事、気を取り直して国道まで引き返し、それらしき路地へ進入、ところが突き当りまで来ても大木は見当たらない。そこで適当に右に曲がり進んで行くと

大木ハッケ~ン・・・・これはすごい(@_@;)
とりあえず大木と石神社におまいりしてから水汲みに行く事にして

大木に巻きつけてあるしめ縄に、お触書が下がっており

お願い:この神木に傷をつけないでください。
この楠木は、樹齢800数十年の昔より私達を見守ってくれています。
天然記念物の指定も受けています。
ご神木を大切にいついつまでも、みんなで見守って行きましょう。
いや~大木はいつ見ても気持ちが良いものです。
そして、その正面にある「石神社」へ

式内社。大平寺の鎮守の森。シンボルのクスノキは樹齢600年と伝わる天然記念物です。夏祭りには大小二基の「ふとん太鼓」が神社を拠点に地区を回ります。紫檀、黒檀でつくられた重たいふとん太鼓を担ぐには地区自慢の団結力が試されます。

鳥居をくぐり

石段を上り本殿へ

ここでも参拝をして帰ろうかなと、境内を見渡すと

彫り物の大黒様が飾ってあった。その下に

ふくみ大黒(大国主命)様
この大黒様は、石神社の境内の樹木の伐採、剪定等により生じた、ご神木(樹齢約百有余年の「白樫」の一部」)を、彫刻されたものです。大黒様のご神体はひび割れ等により少し痛んでいますが、その傷を一人一人が慰撫し癒すことによって見事「大国主の命」として再生されます。「みふく大黒」と名付けられ、ここ石神社の一隅にお鎮まりしていただきました。まず自分自身の身体を清めて氏神様に七難即滅七福即生マル福を頂いてください。
邪心の多いい吾輩に福が頂けるかどうか(?_?)でござる。

石神社を後に水汲みへと移動して行きました。

先程も書きましたが、車一台が通れる道幅なもんで、車は神社の駐車場に置いて、何時ものようにリュックに3本ペットボトルを入れて向かいました。

宅地の壁を見ると水がにじんでいるという事は、湧き水が豊富な所だな~と思いながら到着してみると

近所のオバサマが清掃をされていたので終わるのを待って、ペットボトルに蛇口から頂きましたが、水道の蛇口をひねるとモーターの回る音がしていたので、井戸に溜まっている水をポンプアップしているようでした。
横に祠があったので、賽銭を納め

無事今日の目的達成という所で我が家に向けて車を走らせた。

清浄泉(浄井戸):
この井戸の水脈は生駒山地の地形生成時に生じた岩盤の節理に沿うものです。岩盤が地表近くなり、上面に湧き出る清泉水です。
今から1300余年前、このあたりに河内六寺が甍(いらか)を連ねていました。その中の「智識寺」がこの井戸の近くにあり、東大寺の大仏の手本とされた大きな仏像がありました。聖武天皇、孝謙天皇、称徳天皇が行幸され、智識寺の南には「行宮(あんぐう)」が造られました。昔から天皇や僧侶、村人がこの井戸の水を飲み水として使っていたものと考えられます。
俗説に、空海(弘法大師、真言宗開祖)がこの地を訪れて、この井戸を掘り起こし、付近の住民や農作物を干ばつからから救ったとの伝えがあり、今も「大師の水」として貴重がられています。
この清浄泉は、歴史的に大切なものであると認められ、井戸と水脈を含む地域が、昭和58年5月2日大阪府文化財保護条例に基づいて史跡に指定されました。
昭和58年6月
清浄泉(浄井戸)保存会 柏原市教育委員会
こちら「ふとん太鼓」
「清浄泉」の独断と偏見の評価
宅地が開発され、周りに住宅が立ち並び湧水・地下水には環境が良いとはいえれなく、このような場所では大腸菌が入っている確率が多いいですから、かならず煮沸して飲んで下さい。残念ながら飲みごたえとしてはイマイチでした。近所にある「水呑み地蔵院・弘法の霊水」が美味しいので、ここは少し厳しいのでは・・・・・と思いました。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は
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