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2021年元旦 明けましておめでとうございます。

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NO224:宝泉寺水

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飲み会で水汲みの話をしていたら、まだ地元の名水で知らない所が有るのを知り、汲みに行くついでに、以前から行ってみたかった「石川五右衛門」の居城であったといわれる、「伊久知城」跡も案内してもらう事にして出発した。
現与謝野町合併前旧町野田川町の一つの地区に市場地区があり、その中の八幡神社という氏神さんとその横に曹洞宗・宝泉寺というお寺が隣り合わせで建っている。
話を聞いた時は、八幡サンの石段の横に出ていると聞いたもんだから、てっきり神社の御神水だと思っていたが
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案内されていってみると
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宝泉寺の方であった。本堂は
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こじんまりした大きさで、その横の庫裡
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から神社に抜ける通路に蛇口が備え付けてあった 
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注意書きが張ってあり
「水を飲ませてください」といちどことわったならば、へんじがなくても飲みなさい。
二人以上のときは一人だけ声をかけて飲みなさい。
水量に制限のある井戸水ですが~、無駄つかいは固くおことわり(住職)
という事で、この宝泉寺水は井戸水をポンプアップしていました。
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次に、「伊久知城跡」に案内してもらい、そちらの方へ
この石川五右衛門の話も、飲み会の時に「オヤジから我が家は石川五右衛門の末裔だと小さい時に聞いていた・・・」
と言いだした人がいたから行ってみたくもなった事もあったのである。
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石碑の後ろに据え付けてある獣防護柵を開けて入って行くと
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道なき道を進み
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それらしき道に出て、さらに登って行った
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倒木も有ったりして、苦労して登って行ったら
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案内人もビックリ!立派な山道へ出たのであった(^_^)v
なんじゃこりゃ・・・と案内人にブツブツと・・・、さらに頂上へ向かって歩いて行った。
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祠の横に、大きなお釜が置いてあった。
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祠の前の狛犬は狐の石造になっているから、案内者いわく城跡に稲荷神社を建てたのではと、遠く正面には大江山連邦バッチリ
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息が収まるのを待って、下山はモチロンいい参道
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道まで下りてくると、登り口より100m程離れた所、元の場所にたどり着くと登り口の横の民家のオジサンが出迎えてくれた。
イロイロ話をしていると、年間何人かの方が当地を尋ねて来られ、説明を求められるとの事!
そんな事もあり、こんな資料が有ると
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チョット長い文章なので全文は書き出せないが、まぁ内容も今一の所が有るので要約して書けるだけ書き出してみます。

名所をたずねて:石川五右衛門
 「しのびのもの」で急にその名をはせた石川五右衛門は、その実、出生が我々の在住する野田川町(旧町)であると聞き、ビックリされた方もあろう。
 私も、うすうすその話は伝え聞き知ってはいたが、それが広く世に知られるようになったのは、今から四年前、丁度私がまだ学生生活を横浜で送っていた時東京放送が、「アア!忠臣石川五右衛門」を、ラジオスケッチで流してからである。
 「石川五右衛門について、加悦谷高校の金久先生はかくの如くおっしゃる・・・郷土史研究家の浪江重雄さんは・・・と」とやりだした。懐かしいふるさとのなまりを耳にして、思わず御飯かんでいた口がとまったものだ。昭和39年11月25日の事である。
 読売新聞東京本社から、記者一名が当地を訪れ、野田川町幾地が石川五右衛門出生の地として、週刊読売を通じて全国へ紹介されたのは、それから間もなくしてからである。
 去る7月、その浪江さん宅を訪れ、レコード版とされて東京放送から送られてきた、当時の懐かしい放送を聞きながら、色々、石川五右衛門について語っていただいた。
 時は天正6年、織田信長は長篠に武田を葬り、すぐさま丹波を福知山の明智光秀、単語を田辺(舞鶴)の細川藤孝に平定を命じた。だが、織田信長の天下になるまでは、室町幕府の足利氏末流の一色氏が、丹後85城を、240年にわたって支配していた為に、細川の丹後平定は以外に手間取っている。
 丹後85城の内の一つが、伊久地城(幾地)で、城主が五右衛門の父親左衛門尉秀門であり、一色氏の重鎮であった城山の地形は要害を極めていたとされ、現在の市場小学校裏養源院裏山と目されている。石川氏の系図を見ると
石川秀門ー7代後ー秀吉ー秀門(左ェ衛門尉)-【嫡子:文吾秀澄・娘:菊寿ー家老:坂根斉・五郎右衛門】
丹後平定にしびれを切らした光秀の奸智で、一色義俊に細川藤孝の娘を嫁がせる。藤孝の息子忠與夫人は光秀の娘でもあるから、明智光秀、細川藤孝、一色義俊三家は、姻戚関係を結んだ結果となった。
 やがて本能寺の変が起きている。この時、忠與は秀吉の中国毛利氏攻略加勢の為出陣と定まり、宮津城を出た処でこの報に接している。明智光秀は
我が娘婿細川忠與が当然助けてくれると信じて裏切られ、三日後に秀吉勢に敗れ命を落としている。秀吉が信長の大法要を営んだ時細川藤孝は申し訳ないと頭を丸めて幽斉と号し、光秀に組付かなかった忠與共々、大法要に参加し、そこで幽斉秀吉から墨付をもらう。
 余談になるが、明智光秀の娘で、忠與の夫人が、この事件で丹後半島の味土野へ幽閉された、かの有名なガラシャ夫人である。
 もともと時勢をみるのに敏感であった幽斉は、この時、秀吉に丹後平定を固く約束したのであるが、丹後に勢力を依然としてもっていた一色は、そう簡単に攻められず、秀吉からは「まだかまだか」と書状で責められ、忠與に一色義俊の婿入りを画策させる。これを機に、双方丹後二分領の約束がなされたが、これは義俊以下一色方を謀る口実にすぎなかった。
 一色方は、幽斉の意中を読み、軍評定の結果、主君が死地に招かれるとして賛成しなかったが、義俊はこれも覚悟の上と、天正十年九月八日、弓木城(岩滝)より海路田辺城(舞鶴)へと、家臣150余人を引きつれ向かったのである。
細川軍談記では・・・藤孝(幽斉)は別室にあり、忠興と義俊殿八畳の間にて義兄弟の盃をを交わす。義俊殿が杯を目の高さまで干す時、忠興公刀を引き寄せ給う、隣室に控えていた家臣どっと飛び出し・・・と謀殺の下りを丁寧に書いている。
 一色軍談記では・・・家臣皆別室で御馳走になり、主君一大事の事、石川左衛門血だるまとなり、これを知らせたがそこに絶命。家臣皆驚き駆け出すと、火が消され行方も知れず大乱闘となる。文吾秀澄身を助けて、家臣達大奮闘の働きをするが、手にとるように書かれている。
 やがて義俊も先史。一大事に御座ると弓木城へ帰城した家臣たちは、丹後諸城主を集めて軍評定、峰山吉原城主、一色五郎義清(義俊の叔父)を主君に迎えて籠城することになる。秀澄以下石川方も弓木城へ籠城。天下に有名な稲富伊賀守り(元弓木城主)の鉄砲で、細川方の奇手をさんざん破ったが、義清以下、細川方本陣目指して撃って出たが、一色方に利なく宮津大手川にに於いて義清一族戦死し、九月二十八日遂に弓木城は落城する。
 丹後支城や砦も、ここに至って落城、伊久地(幾地)城も十月三日落城して行く。さてここで問題の石川五右衛門である。此処で石川五右衛門がどうなってゆくかである。兄秀澄は戦死、姉の夫坂根斉も戦死、彼だけが落城後行方不明になったと伝えられ記録されている。
 諸城の家臣達も命あるものは逃がれ、今も何等かの形で書き残されたり、伝えられたりしている。細川方は随分ときびしく残党狩りをしている。一色が余程恐ろしかったと思われる。
 丹後諸城落城が、一色氏の運命と共に消え去る悲運は、言わば信長や秀吉の天下覇権の犠牲であり、弱肉強食の多くがその運命と共にした戦国乱世の無情性とは言うものの、一色氏もまた、足利氏末流の逃れられない運命を負わされ、長い戦乱の中、一色方に裏切城主が幾人も出るという、時の流れをどうすることも出来ず、秀吉の書状から謀殺にまで事の進んだ惨状を、五右衛門はどのように眺めていたのであろうか?と、浪江重雄さんは語っておられる。そして、石川氏の祖先は、名門平氏の末流で、その出身も大和国石川郡で、伊賀ともつながりがあり、24才の時、伊久地城落城から推して天涯孤独となった彼が、大和を訪れても不思議ではないと、伊賀との説明をされた。
 だが忍者としての伊賀説は、幼名が兄の文吾になっており、誰が兄と五右衛門を一緒にしてしまったのか知らないけれども、きっぱりと、伊賀説を否定された。
 もし、伝説通りの忍者として、義賊にもなり、貧乏人を助けたのなら流石は城主の息子だけに育ちが違う。時の天下人の政治に反抗する反骨精神も立派だし根性があるが、彼の英雄振りは、ほんとうの彼でなく、後世の芝居が作り上げた出鱈目だと言い切られた。
中略
 五右衛門の実在性については「続本朝通鑑」「暦朝要紀」に明らかで、文禄三年(1595)8月24日、山科言経という公郷の日記に、京都三条河原で釜煎りの成敗にあったと記されている。
 石川五右衛門の丹後出身説は、今に始まったことではなく、何代も地元の人々へのみ言い伝えられてきたものであり、それが、地元の人の意に反し余にも有名化し伝説の忍者として面白く書かれてきた為に、丹後出身説は、何か悪いことでもしたかのように、内々語り伝えられて今日に至ったのである。五右衛門は、城主の息子であり、謀殺された丹後の血だるまな父や兄、主君の無念、落城の悲鳴などを胸の内に秘め、復習にもえた一人の人間であり、盗方、忍者というのは、表面的な浅い物の見方といえる。
(*注・・名前(系図が、五郎右衛門となっているのは、昔に於いては発音の時、省略することはよくあることであり、石川五郎右衛門の場合にも、石川五右衛門となって、なんら不思議ではなく、同一人物であると言われた)
7月10日浪江重雄さん宅にて    (糸井久尚)
ここからは筆者吾輩が・・・吾輩が飲み会で聞いた末裔と言われた方の苗字は坂根氏であるが為、系図から察するに五右衛門の兄妹「菊寿」が家老「坂根斎」と結婚その流れを汲むものであるのではないかと思われる。
尚、この文章「石川五右衛門」を書き出すにあたり、筆者の糸井久尚氏(どこの誰だかわからない)の了解は取れていませんので、万が一不都合のある方がおられればご一報ください。

法泉寺水の独断と偏見の水の評価は
良くも悪しきも、井戸水であった。水は軟水であり我が家の水道水の方が、コーヒーは美味しく感じた。吾輩の口がおかしいかも(?_?)
詳しい場所


 


NO149:雲岩公園に湧く「あか池の湧水」

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我が町与謝野町の岩屋区にある雲岩公園つつじ祭に行き、偶然に発見した湧水です。上の写真は、その時のイベントに出演していた町のシンボルゆるキャラ「まめっこまいちゃん」デス
「まめっこまいちゃん」の説明、旧加悦町の時、京豆腐藤野の工場進出に伴い、製造過程で発生する「おから」を利用して有機肥料を作る第三セクターの工場を立ち上げ、現在は其の肥料を使用したコメ作りを町内の農家の方々が取り組むなかで、その米をアピールするために商工会青年部が生み出したそうです。其の肥料を使って作った丹後のコシヒカリが「特A」を受賞しているとの事(^_^)v
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そして雲岩公園のつつじを下界から眺めたワンショットです。
で、雲岩公園とは
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     雲岩寺略記
当寺は天平年間(750頃)法道仙人に依り修験道場として開基されたと伝えられる。
後、真言宗雲厳寺として鎌倉時代より七堂伽藍を備えてから大いに繁栄して、毘沙門信仰の信者が近在はもとより遠来のの参詣で賑わった。
然し、大永5年(1525)兵火により一宇を残して全山灰燼に帰したが、諸仏像は持ち出し洞窟に入れて難を逃れた。
時は、戦国の世から織田信長の時代へ移行していく中で、宗の寺院は復興できなかったとものと思われる。
其の後、江戸期になり貞亨三年(1686)宮津 国清寺より傑僧黙澤和尚が入山し、臨済宗妙心寺派に改宗岩屋山雲岩寺となり、復興に努力されたが諸仏像を修理するのが精一杯で堂宇の建立迄は出来なかった。
往時の金堂跡にある宝筐印塔は、永仁二年(1294)の建立で三米三十六糎あり丹後地方最大のものである。
又、天王堂に安置してある地蔵菩薩坐像(鎌倉期)及び毘沙門天立像(室町期)並びに、持国天立像と増長天立像(共に南北朝期)は、野田川町文化財に指定されている。
寺は衰徴したが現在は山つつじの名所で、京都百景の一つとして春は賑わっている。
 昭和63年5月    岩屋区  岩屋郷土史研究会
      贈  池田絹織
公園全景
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お祭りしている広場、絞り失敗
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この階段を登って行きます
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この鳥居をくぐって行きますが、あくまでも雲岩寺なのです。
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その奥には岩清水という名の水貯め小屋がありますが、飲めるような水ではありません。しかし、さてはどこかで水が湧いているかもと期待を持たしてくれた処デス。
登って行く途中、見上げると大きな石の上に稲荷堂が見えてきます
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写真の構図がわるいですが、稲荷堂の入口
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稲荷堂の欄干から見た下界
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 さらに登り、頂上付近に近づくと東屋があり展望が一段とひらけていた。
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その奥には、金堂跡と思われる礎石が残っています。
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15世紀前半の遺物らしいデス。さらにその奥に
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雲岩寺と言われる由縁の大岩ですが、中心の白いボカシは霊が写っている・・・・・
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こちらにも・・・・・・と思いきや、レンズが汚れていました^_^;
この大岩を雲岩(くもいわ)と言い、文殊菩薩を警護する毘沙門天が乗ってきた雲が岩となった伝説が残ってる。その岩に登ってみると
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岩の縁に
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磨崖仏があります。元禄3年(1690)らしき字が彫られている。その岩の上に立つと最高の見晴らしに(^_^)v
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そして、雲岩の下の窪みには
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弥勒菩薩坐像が、これもまた元禄13年江戸時代中期の作だそうですが、風雨にさらさず表面は300年前のものとは思えない美しさが残っていました。
又広場の一角には
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与謝野町指定工芸品  雲岩寺の宝篋印塔  昭和62年10月12日  
 雲厳寺は、一説には法道仙人によって開基された真言系の寺院として始まったとも伝わっていますが、創立年代等は明かでありません。また、戦国期の大永五年(1525)に建物が焼失し、この時に中世期の雲厳寺の歴史は途絶えたとも言われています。その後、江戸時代に黙澤和尚によって臨済宗妙心寺派の寺院として再建されました。
 この宝篋印塔は、山頂付近にある中世期の雲厳寺の伝金堂跡の南にあります。年代等が記載されていないため詳細は明らかではありませんが、総高336cm、鎌倉時代の意匠を残す中世期の大型の宝篋印塔は、雲厳寺の繁栄を伝える遺品として高い歴史的価値を持っています。
・・・と言う事で、町内に住んでいながら初めて登る雲岩寺、再考した出会いでした。
頂上も征服したので下山することに、
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すると下山途中に「あか池」の看板が
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日本昔話にも「あか池さん」の民話として残るこの池はどんな日照りが続いても水が枯れた事がなく昔から雨乞いの池として言い伝えられています。あか池とはこんこんと清水のわき出る池という事です。(補足:おそらく「あかいけ」とは「閼伽池」の事ではないかと、仏教用語からくる)
これは吾輩の求めていた湧水と関係がアルカモ(?_?)という事で行って見る事に!!
そこから50m程下って行くと見えてきました。
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もう少し大きな池かと思っていたのだが、近づいて覗いてみると
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イモリがビックリしたのか落ち葉の中に、しかし水はキレイだ!
しかし、この水を汲むには抵抗がある。で、ここに水が湧いているという事は、近辺にも湧き出しているかもと探して見ると僅かではあるが発見(*^^)v・・・一週間後
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寝ずに考えた結果の水汲み方法(^_-)-☆、しかし、ペットボトル1本汲むのに約10分、三本持って行ってたのだが挫折((+_+))
後から聞いた話だが、「あか池」をかき混ぜると大雨が降るという、そのせいか1週間後のその日は汲み終えるると雨がパラ突き出した。
マタマタ、時間を祭に戻して、「あか池」には後程汲みに来る事にして、山を下りていった。
途中天王堂があり(一週間後の様子)
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つつじ祭りのときは御開帳され、中には
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木像地蔵菩薩坐像(鎌倉時代)や
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室町時代の毘沙門天立像(室町時代)中央と増長天左と持国天右(平安時代の様相が伺えるとの事)が安置されており
写真の写りが悪く出ていないが、役の行者像(江戸時代)も有りました。
天王堂の前の桧を見ると、根元から3mほど樹皮が剥いであり
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鹿が食べたにしては高すぎるし(?_?)なんでだろ~と想いながら祭に合流して行った。

で、独断と偏見の水評価は、先入観(落ち葉の中から湧いている)が強かったのか、美味しく感じ取れなかった
(^_^)v (^_^)v (^_^)v

詳しい場所は
   
大きな地図で見る
      

番外:新年

                
             謹賀新年
     おめでとうございます

       
地域の村おこしのお手伝いができるブログを目指して、昨年に引き続き天然水を探し、徘徊をしていきたいと思っています。「2014年みな様の御多幸」心よりお祈り申し上げると共に、引き続き宜しくお願い申し上げます。m(__)m

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昨年のお気に入りの写真を付けながら・・・

年末、お正月には美味しいお水でコーヒーを飲みたいと思い、福井県にある神宮寺の「閼伽水」と瓜破の滝「駒清水」を汲みに、「閼伽水」は瓜破の滝に近く美味しい水であるところから、「ベニマダラ」
が生息しているのではないかとの推測の元、確かめにも行きたいと思っていた所でした。その結果
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湧き水の壺から出てくるところの石に
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赤い色が付いているのが確認。その水が流れて行く水路にも
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そして、排水の壺に「閼伽水」は流れて行きます。
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「閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。 サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳される」
つまり、案外、おいしい水の出てくる湧き水の周りは赤くなっているところから「閼伽水」と当て字に使われたのではと推測してみた。

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最後も水の風景で、終わります。




NO64:滝の千年ツバキの「椿の雫」

今回は地元、与謝野町滝に在る「滝の千年椿」を観に行った折に偶然見つけた「椿の雫」をお送りいたします。

加悦谷バイパスから滝地区に入って行く信号の近くに、バイパスを歩道橋でつないだ「加悦SL広場と加悦道の駅」が有ります。
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道に面したところにも「チンチン電車」が展示してあります
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この加悦SL広場には、国の重要文化財になっている蒸気機関車が保存され鉄道オタクにはよだれの出る場所であります。
その近くの信号を豊岡市但東町に抜ける方向に入って5kmほど進むと「滝の椿公園」「椿文化資料館」の案内標識が出てきます。
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この標識の方向へ入って行くと「椿文化資料館」が見えてきます。
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その駐車場には、地元物産店「千年椿・ちんざん」が有り、ココの大福もちは美味しいとの評判の店ですが、今は来客が少ないのか何時も開いてる事ではないようです。
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ココに車を置いて歩くのも良し、車で椿公園の駐車場まで行くのも良し数キロは有ります
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このような車一台が通れるぐらいの道を登って行くと、駐車場に着きます。上下二か所ありますが計10台ぐらいしか止めれません。
この椿公園一帯は大田和と言う集落跡です。
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            大田和集落のこと
このあたり一帯は、かって大田和の集落として六世帯が住んでおり、厳しい気象条件や自然条件と闘いながら、農林業を中心に人々の営みが有りました。
 しかしながらここにも過疎の波がおしよせ昭和35年頃から離村がはじまり、昭和46年を最後に全世帯が加悦町に移住し現在に至っています。
 今は残された土蔵や苔むした石垣が、往時をしのぶよすがとなっています。
”来たときより美しく”を合いことばに、豊かな自然をいつまでもたいせつに残していくために、一木一草にも心配りをお願いします      元大田和住人より
平成三年三月 建之   加悦町
この駐車場から千年椿が在るとこまでは100mほど歩いて登って行きます。
歩き始めると、水車小屋が有ります。イベントや椿の見頃の時だけ動いているようです。
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この水車小屋は、石垣の状態から見て以前有ったところに再建されたような咸宜です。そして公園の見取り図デス
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森林浴をしながら登って行きます
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そしてこの道の途中に休憩場として「椿の雫」の水飲み場が有りました。
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「椿の雫」と言うだけの事で、竹筒から出る水の量はチョロチョロと言うにふさわしい量しか出てきていません。
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写真写しがヘタで水が見えにくいのですが、ペットボトル一本汲むのに10分ぐらい掛かってしまいましたので、手が疲れ、二本目からは水飲み用コップの竹で作った台を借れてそれに置いて汲むことにしました。
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元の様子はこのようにカップが並べてありました。本来はイベントの時にこの水を用いてお茶席をされていたようです。
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元「大田和」に屋敷があった我が家の親戚にあたる人に聞いたところ、この水は「たまり水」と言って洞窟に溜まった水を引いて使っているのだそうで、その親戚の元屋敷で使っていた水だとの事。おかしげな水ではないことが証明され、安心して飲めます。ただし、保証はしかねるという話でした。

結局入れるのに時間が掛かって4本入れたところで飽きてしまい終わりにしました。
その後、汲んだ水を入れたコンテナをそこに置いといて、さらに上の「千年椿」を目指して登っていきました。

当日は与謝野町のケーブルテレビ取材班が来ていて、地元の保存会の人たちと椿をバックに撮影をされていました。
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その「千年ツバキ」がこれです
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ツバキ科ヤブツバキ属のクロツバキだそうで、大木なのか花が小さいのか咲いている様子が分かりにくいのでアップして写しました。
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「滝の千年ツバキ」の説明書きデス
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京都府天然記念物
滝のツバキ
                       (平成元年三月指定)
この椿の巨木は、ツバキ科ヤブツバキ属クロツバキで同種の物は日本最古の巨木であり、その原種ではないかと言われている。以前から地元では「ムラサキツバキ」としてその存在が語り伝えられてきたが、品種等詳細については全く不明のままであった。
昭和61年、富山興業(株)加茂政三氏によって、日本国内でもまれな巨木であることがわかり、昭和63年4月椿の研究家として著名な(財)京都園芸倶楽部評議員・薬学博士渡辺武氏により他に類を見ない日本一のクロツバキであるとの鑑定を受け、世に知られるようになったものである。
 三月から四月までの濃紫紅色の中輪筒心の花が咲き、満開時には紫紅の花が緑の枝葉の間をうめつくして壮観である。

場所:京都府与謝郡加悦町字滝小字深山316番地
品種:ツバキ科ヤブツバキ属クロツバキ
推定樹齢:約1200年
大きさ:樹高(9,7m) 枝張り(約10m) 幹回り(3,26m)

まさに今年のツバキがそのものであります。花が少ない年もありますよ~(^^)/

帰りには、SL広場と加悦道の駅のところに在る信号を山の方に入って行くと「加悦文化・工芸の里」が有り、各種工房と江山文庫(文化の資料室)や薬草風呂で有名な「リフレかやの里」が有り、そこでランチバイキングを食べて帰る事にしました。
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ランチバイキングのメニュー
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バイキングを腹いっぱい食べて満足の笑顔で帰路に着きました。ここは障害者が中心になって運営されています。皆様も一度お寄りください。
詳しくはリフレかやの里HPを見てください。

「椿の雫」の味は、コーヒーの味が薄まるような感じのお水でした。
で、独断と偏見の味評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vとします
詳しい場所は


おわり
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