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NO374:岩湧寺の長寿水

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今回は変則的なコーナーになりました。本来なら湧き水取水地の自治体の情報を書くのですが、三十三ヶ寺巡り第四番「施福寺」の情報を書こうと施福寺が或る自治体「和泉市」の湧水地を探したのですが見つからず、隣町:河内長野市に出ている岩湧寺の長寿水とタイアップしての配信としました。
先ずは施福寺の情報からお送りいたします。
その前に、一ヶ月程前にコロナに罹患いたしまして、その後完治後2週間位して相方さんも別の感染源と思われる場所で幹線致しました。その記録(我が輩の闘病)を書いておきます。
旅行から帰宅後四日ほどして、午前中は何事もなく暮らしていたのですが、昼寝後からだが重くなり、なんだかな~と思いながらゴロゴロト過ごしていましたが、状況は悪くなる一方で夕方には熱を測ると37,7度もある、旅の疲れから夏風邪をひいたのかな~ぐらいの思いから置き薬を飲み様子を看てみたが朝になっても体温が変わらず、おしやと思いながら、行きつけの発熱外来で看てもらうことに、院内に入らず車から電話をして待機、ののうち検査キットを持って鼻に差し込んで(チョイと痛い)検査、結果陽性との事ガク(-_-;)
で、コロナ治療薬ゾコーバと解熱剤をもらいその日にゾコーバ一気に3錠飲みその後四日間、解熱剤とソコーバを一錠飲み続けました。その間、喉の痛みと鼻水が出ていましたので、勝手に喉の治療薬である漢方の銀ギョウサンを並行して飲み続けた結果、二日後ぐらいには平熱になりましたが体はシックリいかずその二日後ぐらいから仕事もできるように回復いたしました。連れ合いサンも大体同じ経過を辿って回復していました。今回から発症状況は発表されていませんが、巷では結構感染されている方がおられる様子です。しかしながら重篤になる方は少ないようで余りニュースにもなっていません。我が家も後遺症もなく今は元気で生活いたしております。

と言うことでブロ方が方がおろそかになり今になってしまいました。
施福寺に行くには、近道岸和田和泉ICで下り30分ほどで駐車場へ到着。
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車はここに置いてお寺まで歩きます。三十三ヶ寺巡りの中では一番ハードな参道だと言われていたので(多くはお寺まで車で行けるようです)登山?ハイキングの装備をしてのお参りでした。駐車場から少し登った所にお土産店があり物色していると、店主さんがお参りする前にこの上に大阪一の滝滝が在るので観ていってくださいトのこと、少し登ると
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朱色の鳥居が目に入ってきた。石碑に「満願弁財天」と彫られている。入って行くと突き当たりに滝が見えてきた
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橋の上から観たのですが、降りて滝の近くまで行ける様子。降りていくと
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アーチ橋の向こうに
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上から下まで見える場所となっていたが、迫力はそう変わらなかった。一枚岩を流れ落ちていると言われる滝の横には岩肌に祠を掘り抜いた弘法大士像も安置され
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神社の鳥居をくぐって来たのだから、普通そうなると「不動明王」(これも仏教かも)が祀られているのだが、神仏融合の世界であった。
登坂する前の一服の清涼剤となり、さて「施福寺」向けての出発となりました。
参道には、「入山料・駐車料金」を受け取る料金所があり支払って入って行きます。
参道の横を、先ほどの満願の滝に流れ落ちていた沢を観ながら登っていくと
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しばらく歩くと山門の姿が見えてきました
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施福寺の玄関山門です
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仁王門に入って行くと巡礼の足腰を祈願した草鞋がたくさん奉納されていました。
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施福寺に行けば売ってあるのかな?と思いながら山門を後に、ここからが西国三十三番札所で一番きつい参道だとの事、そのために高齢者の身となった我らは山登りの準備をしての参拝である。
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前方に苔むした昔ながらの石段が見えてきました。徐々にきつくなってくるのかな~と覚悟をしながらの登りです
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五丁を過ぎた辺りの階段、思っていたより歩きやすい参道です。まぁ何より・・・しかし息は弾んでおります(^_^;)
参道もきつくなったり、ユルくなったりで過去の道を満喫しながら上っていくと
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六丁の道しるべ、そのうち上の方に施福寺らしき大きな屋根が見えてきました
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その手前にもお堂があるようなので寄ってみました。
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西国藍染明霊場トのことだが、お堂の前に「弘法大師石像」が番士をしています。何故かいな~と探すと下記の通り
愛染堂 - 弘法大師御剃髪所跡。空海が得度して剃髪したとされる場所で堂内には愛染明王像のほか、勤操と空海の像が安置されている。
そのお堂にはこんな看板が
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おかげの少ない方はお参りしてみては(^_^)/
そして最後の難関の石段、登り切れば極楽浄土・・・・かな(?_?)
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と思いつつ、最後の気力を振り絞り上がって行った極楽浄土
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ここで、施福寺の歴史を
創建伝承
古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として創建されたものとみられる。南北朝時代成立の寺史である『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、施福寺は欽明天皇の時代(539年 - 571年)に播磨国加古郡の行満上人が創建したものであるという。

札所本尊の千手観音像については、次のような説話が伝承されている。宝亀2年(771年)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間をこの寺で過ごさせてくれと頼んだ。この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間熱心に修行に励んだ。予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが寺僧たちはそれを拒んだ。すると客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、真の出家者などはいないではないか。このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで出て行ってしまった。驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を沈みもせずに歩いている。これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀ったという。

縁起には役小角(役行者)、行基、空海(弘法大師)などに関わる伝承もある。役小角については、彼が自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする、地名起源伝承がある[注 1]。また、空海は延暦12年(793年)、20歳の時に槇尾山寺において勤操を導師として出家剃髪し、沙弥戒を受けたとする伝えがある。空海の当地における出家剃髪は史実とは認めがたいが[注 2]、空海が唐からの帰国後、都に戻る直前の大同4年(809年)頃、当寺に滞在した可能性は別の史料から指摘されている[注 3]。縁起には、延喜16年(916年)に定額寺に定められるとするが、施福寺は度重なる火災で古記録が失われており、史実か否か不明である。

以上のように、施福寺の初期の歴史は伝説色が濃く判然としないが、『日本霊異記』に言及されている「和泉国泉郡の血渟(ちぬ)の山寺」は当寺のこととされ、同書の成立した9世紀前半には著名な寺院であったことが伺われる。

中世以降
正嘉年間(1257年 - 1259年)、後白河上皇所縁の法華経と仏像が奉納されたことが縁起に見え、寺が所蔵する「法華経妙音菩薩品」(平安時代の装飾経)がそれにあたると推定されている[3]。仁治年間(1240年 - 1243年)には、仁和寺菩提院の僧・行遍によって灌頂堂(密教の師資相承の儀式を行う堂)が建立されており、中世には当寺は仁和寺の支配下にあった。

南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に与した。そのため戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡した。天正9年(1581年)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われるが、後に豊臣秀頼の援助により慶長8年(1603年)に仁王門を始めとする伽藍が復興された。

近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間(1624年 - 1645年)頃に真言宗から天台宗に改宗し、江戸の寛永寺の末寺となった。江戸時代末期の弘化2年(1845年)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失。現在の本堂等はその後に再建されたものである。
Wikipediaより
コチラの文章は簡潔で分かり易く書いてありましたので「じゃらんからお借れ」しました。
和泉市の槙尾山(標高600メートル)の山頂手前(標高485メートル付近)にある古寺。約1450年前、欽明天皇の勅願により、行満上人によって開かれたとされる。修験道の開祖・役行者が、書写した法華経を葛城の峰々に安置し、最後の巻尾をこの地の如法峯に納めたことから「巻(まき)の尾(お)」と呼ばれ、これが山号の槙尾に変化したという。行基や空海もこの山で修行を積んだと伝えられ、往時は約3000人の僧を抱える大寺だったが、天正9年(1581)に焼失。その後、豊臣秀頼によって再興された。本尊の十一面千手千眼観世音菩薩像は毎年5月15日に開扉される。山麓からの参道は観音八丁と呼ばれる厳しい道のりだが、2005年12月より、ふもとの「槙尾中学校前」から小型バスが運行。日祝日は7往復、土曜と平日は4往復している。終点の「槙尾山」下車、徒歩30分。
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本堂正面でございます。写真を写していたと思っていましたが「社務所」が正面右端にアリ、ここで御朱印をなにがしかのお金を払い、御朱印帳二冊と掛け軸計3筆書いて頂きました。
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掛け軸の場合は、書いてもらってからドライヤーで乾かして巻き上げます。それも終り堂内を見て回っていると、拝観料500円で仏像の安置してあるところが見れるとのこと、それも札所寺院としては珍しい写真撮影『許可』の文字、これは見てこなければバチが当たる殿思いで入館、余りの多くの仏像がありましたが、仏像にあまり詳しくない我が輩は、コレはと思う仏像だけを写真に撮らせて頂きました。
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先ずは、三十三ヶ寺札所のご本尊「ミニチュア観世音菩薩像の一覧」であります。
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手前の手が沢山ありますのが札所札所本尊「十一面千手千眼観世音菩薩」像であります。
真ん中の弥勒菩薩が施福寺の本尊で「前向きに生きることを説く」丈六の仏様(ほとけさま)、右に配置されている仏像は
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文殊菩薩像で「知恵を説く仏」で行基造立とのこと。
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日本唯一「方違大観音」
悪い方角を良い方角に変えてくれるという観音さんです。
古来から転宅・転勤、結婚、家の新築、旅行等にお参りします。
槙尾山の少し南に三国山があり、紀伊と和泉と河内の三つの国の接点にあり、山頂にはレーダー基地もあり、正式な山の名前は一乗ヶ岳といいます。一乗とは一仏乗という事で当山の方違大観音の前でお参りすれば、全ての人を仏の乗り物に乗せて、良い方向に向かわせてくれるという事で、人生の大きな節目、変化、変わり目にお参りする「変化はチャンス、チャンスは変化」という事です。
仏乗という事は、自分は仏様、御先祖様に支えられて生きている事を気ずかせてくれる事で、開運招福長寿勝命の観音様です。
と説明書きが立てて有りました。今一内容文章が・・・?
他には、馬頭観音像
IMG_3474.jpg足腰を守る花山法皇足守の馬頭観音
今から千年『少し前、花山法皇は観音巡礼の道すがら、当山への山道で大変難儀された法皇は、馬頭観音に助けられて無事槙尾山施福寺に参拝できました。
馬頭観音の馬の意味は、人間の生命力を表わし、その生命力の元は足であるという事で、、足の裏を見せている日本唯一の馬頭観音さんです。
足は第二の心臓jといわれ、現代の最先端医学では、インターバル徒歩と言って三分間ゆっくり歩き、三分間早歩きを数回繰り返すと体内のミトコンドリアとATP(乳酸)とが結びつき、生命力アップ、スタミナアップになるという研究結果があり広く実践されております。
仏教の生命観をわかりやすく説明されている、足腰を守り健康長寿の観音様です。
   お守り等があります
施福寺の仁王門に草鞋のお守りがたくさん奉納されていたのが、馬頭観音さんにお願いしたもののようです・・・。
その他目に付いた「涅槃釈迦如来像」
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涅槃仏とは、釈迦が入滅する様子を仏像としてあらわしたもの。寝仏、寝釈迦像、涅槃像とも呼ばれ、主にタイの仏教寺院などで見ることが出来、足の裏には宇宙観を示す文様などが描かれている。なお、釈迦入滅の様子を描いた絵画を涅槃図と呼ぶ。
堂内を見て回っていると後ろの方で何か見られている感じがしたので振り向いてみると・・・ビックラポン

と、施福寺の本堂の内容でした。
境内で食事を終えて帰りがけに「ダイヤモンドトレイル」なる看板をみて
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金剛葛城山系の稜線45kmを縦走する長距離自然歩道で何日掛けて歩くのだろうと話していたのだが、この時点ではダイヤモンドトレイルの一部に入っていた「岩湧山」に行くとは思っていなかったのでした。
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で、槇尾山施福寺を後にしたのでした。
で、
後日「施福寺」に参拝した事を含めて水汲みの記事を書くため大阪の和泉市を調べて見ても、汲めるようなところが見つからず、
(施福寺周辺は聞く限り地元の方は無いと言われていた)それなら隣町の「河内長野市か岸和田市」を検索してみようと・・・
取りあえず近くの河内長野市からということで見つけたノが「岩湧寺の長寿水」でした。
地図で見る限り、岩湧山の中腹にあるようで、水汲み場に行く道はどうも岩湧山の山麓を林道が走っているようで、近くにある滝畑ダムを通り林道に入る道もあったので、チョイと心細い面もあったが挑戦をしてみる事で出発しました。
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途中「関西サイクルスポーツセンター」テレビに取り上げられるレジャー施設で、こんな所にあるのか・・・と思いながら横目で見て通り過ぎ、滝畑ダムに到着
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そこから「夕月橋」をわたり(滝畑ダム湖を橋から見た景色)
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渡りきると道路標識
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道路標識が小さくて読み難いが、横谷に方面左折をして進んで行った、この頃はカーナビの指示どおり行っているのだが、少々疑心暗鬼の胸中・・・しばらくすると
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手作りの道路標識「岩湧寺」方面と書いてあるので良しとしてコンナ道へと
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入って行くのでした。







つづく
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NO373:粉河の「お大師さんの井戸」

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西国三十三ヶ所巡り第三番「粉河寺」参りに行った折り、寄ってきた水汲み場のレポートです。
西国三十三番札所巡りの三番札所以降は日帰り参拝ができる距離内にあるため日帰りで計画を立てました。
やはり遠方まで行くため水汲みも行きたくなり探してみると、近場に二ヶ所の汲めるところが見つかりました。
目的のメインであります「粉河寺」にお参りしてから、「お大師さんの井戸」を探すべく出発。夕方には所用があった為出発を早くした、と言っても約3時間ほどで着けるのでAM7時過ぎの出発であった。現地までは「京都縦貫道→第二京阪→近畿道→京奈和道」と高速道路でまっしぐら(^_^)v 紀の川東ICで下りてしばらく走ると「粉河寺」に着きました。
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山門の門前町?にも有料駐車場がありましたが、境内にもあると言うことで、山門の右の通りを進み入って行くと、左側に大神社の大クスノキがいきなり目に飛び込んできました。
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写真の撮り方が下手くそのため迫力が今一伝わらない写真ですが、根元の幹の膨らみが15m高さ25mの役1千年の樹齢のある巨木である。ご親切に「気軽に中に入り巨木に触れてパワーを頂いてください」と書いてあります。我が輩はこの時点では車に乗っていたのでパス。その奥にある駐車場に車を入れた。
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駐車料金は、昔のバスの車掌サンが首から提げていた大きな「がま口」と言っても今時の若い人たちには判らないだろうが、そのオジサンが車が入って来る度に集金に走られている。一度に数台の車が入ってくると集金をした人が判らなくなりウロウロと、何故入り口に料金所を作らないのか疑問に思いながら・・・当然我が輩は自主的に持って行ったのだが・・・境内見取り図の右手に粉河寺の名称となったであろう長屋川沿いの参道を歩き始めた。粉河寺は桜の名所でも名が知れていたのでこの時期に参拝と御朱印を戴きに来たのであります。
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粉河寺の成り立ちの二つの説話
「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。

2つ目の話は千手観音の霊験説話である。河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。
で、参道を歩いていると
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仏足石なる物が目に入ってきた。
仏足石
お釈迦さんの足跡がきざまれ千輻輪相をあらわしその大きさは人徳の偉大さを象徴している
後ろの碑は江戸時代の傑僧願海上人の筆である
仏足石のお守りは本堂にてお受けください
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ソコを過ぎると次に在ったのは
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出現池
本尊千手観音の化身童男大士(童男行者ともいう)が柳の枝を手に白鳥に乗ってこの池より出現したと伝えられる。
右 馬蹄石
正面 童男大士像
左 三角堂
堂男大士は現世利益の佛として殊に病気平癒の霊験あらたかにして、祈願成就すれば、この池に鯉の放生をする習慣がある。
童の清き姿をあらわしし  御池の水のいく世すむらん
と言うことの池である。
次に出てきたのが
身代り地蔵尊
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身代り地蔵尊のお守り並びにミニ地蔵尊は本堂にてお受け下さい
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そして
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中門をくぐると
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遠くに?本堂の全容が見えてきました
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その石段の左側には国指定粉河寺庭園が見えました。
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巨石に蘇鉄を用いた庭園で南国を思い浮かべる作りの庭でした。説明書きには
桃山時代の枯山水の石庭で本堂前の左右の崖地に築庭され、日本の庭園の中でも先例のない様式である。その上、巨石を十分にかつ自由に扱いこなし、全く豪快な造形を呈している。枯山水庭園の珍しい形態を持った名園で、用いた紀州石は雑賀崎の青石(緑泥片石)、琴浦の紫石(紅簾片石)、竜門山の竜門石(蛇紋岩)の名石を用いている。
指定日:相は45年(1970)年4月23日
というものです。で、本堂は
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大きなお寺の建物は何処とも同じですが威厳を感じます。これまた、本堂に入ると、
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たまに出くわす古びた木造が安置されており、おそらく開祖様であるのだろうが、ある所では自分が治して欲しいところをさすったりしてピカピカに光っている仏像もある。ここの仏像は触ってはいけないのかそのようなことはなかった。
たしか写真撮影は禁止されていなかった・・・と、堂内を撮っていたようでようで
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全景です。先ずはお祈りを唱え、御朱印を戴きに納経所に御朱印帳と掛け軸用を差し出して
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書き終わるまで売店を散策、すると
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例の身代わり地蔵のマスコットが売ってありました。
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書き終わりましたので境内を散策、本堂の後ろを回ってみると
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またもや巨木にでくわした。
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紀の川市指定 自然保存木
             指定年月日 平成9年4月24日
クスノキ「楠・中国名は樟」クスノキ科
(踞木地のクスノキ)
 暖地性の常緑樹、古くから社寺などに植えられ普通20m以上になり直径も太く5~8mに達し、巨木が多いい。
樹皮は暗褐色で短冊状に縦に裂ける葉は互生して楕円形、葉を切ると樟脳のにおいがする。5~6月頃黄白色の花が咲き、10~11月頃8~9mm位の果実ができ球形で黒く熟す。
 このクスノキ寺寺伝によれば「光仁天皇(宝亀元年、西暦770年)の頃、大伴孔子古はこの木に踞して下を通る鹿などを・・・」
と記されている。このクスノキはそ踞踞木地にあり、かなりの樹齢であると推定される。
ソコの境内には粉河産土神社が在ります。明治になり神仏分離により粉河寺から独立しているそうです。
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宝亀元年(770年)に紀伊国の猟師・大伴孔子古が粉河寺を創建し、次いでその子の大伴船主が延暦2年(783年)に鎌垣庄内各村の氏神を勧請して粉河寺の鎮守社として社を建立した、それが当社の始まりであるという。

天正13年(1585年)に羽柴秀吉による紀州征伐にあい、粉河寺とともに全焼している。

粉河寺の本堂のすぐ奥にある鎮守社として、江戸時代には紀州藩主徳川家の崇敬を受けていたが、明治時代の神仏分離によって粉河寺から独立している。

1912年(大正元年)、旧長田村松井の丹生神社を合祀、同年粉河町東毛の大神社も合祀している。1919年(大正8年)には粉河町粉河天福神社も合祀している。

当社の祭りである粉河祭りは紀州三大祭の一つである。
(Wikipedia)
1959年(昭和34年)、裏山より経塚が出土している
帰りに見た番犬?番猫?
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チョイと暑かったのか怠けている最中

で、一通り粉河寺を一巡して、次なる目的である「お大師さんの井戸」を探しにお寺を後にした。
道すがら桃の花が綺麗でしたので一枚パチリ・・・と
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と、そこから紀の川の対岸を見た紀伊山地の山肌にも桜の群生らしき眺めが
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コチラはどアップした様子、吉野山に対抗しているのかも・・・と
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対岸の山々を眺めていると、桃源郷の里山を感じ、行ってみたい気持ちに駆られましたが、そこをジッと我慢をして「お大師さんの井戸」を探しに紀の川の畔にむかった。情報元にグーグルマップがアップされていたので、スマホで確認しながら近くまで
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周りが田畑の中にある集落で、ゆっくり車を走らせていると
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なんと歴史街道と書いた「大和街道」の石柱表示、昔はこの道が奈良へ通じる道で、今でこそ国道24号に変わってしまっているが、多くの人々が行き来をしていたメインロードであったようです。その通行した旅人の喉を潤したであろう井戸が
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弘法大師常夜灯(左 いせ まきのを経 右 ○うやみち)のすぐ傍に発見できました。
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こちらから階段を降りて
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正面に弘法大師が祀られているお堂が安置されており
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見るからに周辺の方が大切に保存されていることの分かるものであった。その元に
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ステンレスの蓋がして飲み水として今も活躍している状態だと一目で分かります。中を覗くと透明な綺麗な湧き水が貯まり
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杓子も置いてあり、この柄杓で水を戴くことにしました。全体像は相方さんがガンバッテ汲んでいるとこです。
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この「お大師さんの井戸」の謂れが説明されている看板がコチラに
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       「お大師さんの井戸」伝説 
 その昔、なんともみすぼらしい、ぼろぼろの法衣を着たお坊さんが高野辻を通りかかり、庄屋の家の前に立って、
「誠にすまないが、水を一杯飲ませてはくれないか」と乞われたところ、その庄屋は、気の毒そうに、小さな声で
「家の水は金気が多いけど・・・」と言いながら、湯飲みに汲んで差し出しました。
 飲み干した坊さんは、金気の水ではさぞお困りだろうと、錫杖でこの場所を突くと、不思議や、真水が湧き出ました。
 その後このあたりの人々は、きっとあのお坊さんは弘法大師に違いないと言って「お大師さんの井戸」と愛称をしています。
 また、このあたりは高い杉の木が生い茂っていて、それは寂しいとこでした。
 昭和六年旧暦3月21日(弘法大師のご命日)字内(あざうち)の人々が浄財を集めて現在のように改修し、毎年新暦8月7日には井戸替えをしてお祀りし、、大師の徳を偲んでいます。
 この湧き水は、夏は冷たく冬は温かく、日照りで字内の井戸が枯れても、この井戸だけは絶対に枯れたことがないという、不思議な井戸です。
         昭和59年8月7日 (弘法大師ご入定1150年祭を記念して)
一つの水汲みの目的は無事達成できましたが、近くに同じような「お大師さんの井戸」がある事を偶然グーグルマップにて見つけ、そちらの方にも足を伸ばすことにして出発、マップにて見つけたので分かり易い所にあるはずと高をくくっていったのであるが、
その辺らしき所をグルグルと回っても見つからず
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思いあまって、遠くで畑仕事をされているおば様に尋ねることにした
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・・・と、おば様「地元の人間ではありませんが、おそらくあれではありませんか」と指さして教えてくれました。
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遠くからは水が湧いてきているような設備ではないようなので、ダメ元で行ってみることに
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行ってみるとやはり水汲み場所である。しかし、誰かが世話をしている様子はあるのだが、いかんせ周りが道路で、そのせいもありほこりまみれの様子。
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しかし、花瓶には今日生けた新鮮な花が立てて有ります。地蔵産の前に板の蓋がしてあり、それを開けて井戸を覗いてみると
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粉河の「お大師さんの井戸」から比べると水はよどんでおり、透明感もなく湧き水もおそらく周りの宅地開発、道路の新設等々により枯れかけているのだろう(^_^;)近代的な流れにより、寂しいが致し方ないことなのだろう・・・(T_T)
本来なら別コーナーでお届けするのが本筋なのですが、前回の播磨十水「篠井乃水」の事があり記録だけ残しておくことにしました。
最後に「弘法井戸の由来(通称:出水)」をお届けいたします。
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打田町花野
昔 弘法大師が諸国を行脚(あんぎゃ)して当地に来られた
夏のこととて余りにも暑く、のどがかわいたので水を求められたが、辺りには水がなく、だれも恵んでくれる者がなかった
ところが、或る老婆がわざわざ遠くまでいって水を汲んできてくれた
大師は大変よろこび老婆の慈悲深い心に感心して、持っていた錫杖で地面を突いたところ、不思議にもそこから水がコンコンと湧き出てきた
これがこの井戸の由来で、この井戸はどんな日照りでも清水が湧き出てきて涸れることがない。
そして今も花野の人々の生命を守っている
             昭和61年十月吉日

で、粉河の「お大師さんの井戸」の水評価gは
コーヒーの色が濃くでた珍しい水であった。初めて飲んだときは渋味を感じたが、日が経つにつれまろやかなコーヒーになっていった。慣れたモカも
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は

花野の出水の場所も






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