NO374:岩湧寺の長寿水

今回は変則的なコーナーになりました。本来なら湧き水取水地の自治体の情報を書くのですが、三十三ヶ寺巡り第四番「施福寺」の情報を書こうと施福寺が或る自治体「和泉市」の湧水地を探したのですが見つからず、隣町:河内長野市に出ている岩湧寺の長寿水とタイアップしての配信としました。
先ずは施福寺の情報からお送りいたします。
その前に、一ヶ月程前にコロナに罹患いたしまして、その後完治後2週間位して相方さんも別の感染源と思われる場所で幹線致しました。その記録(我が輩の闘病)を書いておきます。
旅行から帰宅後四日ほどして、午前中は何事もなく暮らしていたのですが、昼寝後からだが重くなり、なんだかな~と思いながらゴロゴロト過ごしていましたが、状況は悪くなる一方で夕方には熱を測ると37,7度もある、旅の疲れから夏風邪をひいたのかな~ぐらいの思いから置き薬を飲み様子を看てみたが朝になっても体温が変わらず、おしやと思いながら、行きつけの発熱外来で看てもらうことに、院内に入らず車から電話をして待機、ののうち検査キットを持って鼻に差し込んで(チョイと痛い)検査、結果陽性との事ガク(-_-;)
で、コロナ治療薬ゾコーバと解熱剤をもらいその日にゾコーバ一気に3錠飲みその後四日間、解熱剤とソコーバを一錠飲み続けました。その間、喉の痛みと鼻水が出ていましたので、勝手に喉の治療薬である漢方の銀ギョウサンを並行して飲み続けた結果、二日後ぐらいには平熱になりましたが体はシックリいかずその二日後ぐらいから仕事もできるように回復いたしました。連れ合いサンも大体同じ経過を辿って回復していました。今回から発症状況は発表されていませんが、巷では結構感染されている方がおられる様子です。しかしながら重篤になる方は少ないようで余りニュースにもなっていません。我が家も後遺症もなく今は元気で生活いたしております。
と言うことでブロ方が方がおろそかになり今になってしまいました。
施福寺に行くには、近道岸和田和泉ICで下り30分ほどで駐車場へ到着。

車はここに置いてお寺まで歩きます。三十三ヶ寺巡りの中では一番ハードな参道だと言われていたので(多くはお寺まで車で行けるようです)登山?ハイキングの装備をしてのお参りでした。駐車場から少し登った所にお土産店があり物色していると、店主さんがお参りする前にこの上に大阪一の滝滝が在るので観ていってくださいトのこと、少し登ると

朱色の鳥居が目に入ってきた。石碑に「満願弁財天」と彫られている。入って行くと突き当たりに滝が見えてきた

橋の上から観たのですが、降りて滝の近くまで行ける様子。降りていくと

アーチ橋の向こうに

上から下まで見える場所となっていたが、迫力はそう変わらなかった。一枚岩を流れ落ちていると言われる滝の横には岩肌に祠を掘り抜いた弘法大士像も安置され

神社の鳥居をくぐって来たのだから、普通そうなると「不動明王」(これも仏教かも)が祀られているのだが、神仏融合の世界であった。
登坂する前の一服の清涼剤となり、さて「施福寺」向けての出発となりました。
参道には、「入山料・駐車料金」を受け取る料金所があり支払って入って行きます。
参道の横を、先ほどの満願の滝に流れ落ちていた沢を観ながら登っていくと

しばらく歩くと山門の姿が見えてきました

施福寺の玄関山門です

仁王門に入って行くと巡礼の足腰を祈願した草鞋がたくさん奉納されていました。

施福寺に行けば売ってあるのかな?と思いながら山門を後に、ここからが西国三十三番札所で一番きつい参道だとの事、そのために高齢者の身となった我らは山登りの準備をしての参拝である。

前方に苔むした昔ながらの石段が見えてきました。徐々にきつくなってくるのかな~と覚悟をしながらの登りです

五丁を過ぎた辺りの階段、思っていたより歩きやすい参道です。まぁ何より・・・しかし息は弾んでおります(^_^;)
参道もきつくなったり、ユルくなったりで過去の道を満喫しながら上っていくと

六丁の道しるべ、そのうち上の方に施福寺らしき大きな屋根が見えてきました

その手前にもお堂があるようなので寄ってみました。

西国藍染明霊場トのことだが、お堂の前に「弘法大師石像」が番士をしています。何故かいな~と探すと下記の通り
愛染堂 - 弘法大師御剃髪所跡。空海が得度して剃髪したとされる場所で堂内には愛染明王像のほか、勤操と空海の像が安置されている。
そのお堂にはこんな看板が

おかげの少ない方はお参りしてみては(^_^)/
そして最後の難関の石段、登り切れば極楽浄土・・・・かな(?_?)

と思いつつ、最後の気力を振り絞り上がって行った極楽浄土

ここで、施福寺の歴史を
創建伝承
古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として創建されたものとみられる。南北朝時代成立の寺史である『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、施福寺は欽明天皇の時代(539年 - 571年)に播磨国加古郡の行満上人が創建したものであるという。
札所本尊の千手観音像については、次のような説話が伝承されている。宝亀2年(771年)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間をこの寺で過ごさせてくれと頼んだ。この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間熱心に修行に励んだ。予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが寺僧たちはそれを拒んだ。すると客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、真の出家者などはいないではないか。このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで出て行ってしまった。驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を沈みもせずに歩いている。これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀ったという。
縁起には役小角(役行者)、行基、空海(弘法大師)などに関わる伝承もある。役小角については、彼が自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする、地名起源伝承がある[注 1]。また、空海は延暦12年(793年)、20歳の時に槇尾山寺において勤操を導師として出家剃髪し、沙弥戒を受けたとする伝えがある。空海の当地における出家剃髪は史実とは認めがたいが[注 2]、空海が唐からの帰国後、都に戻る直前の大同4年(809年)頃、当寺に滞在した可能性は別の史料から指摘されている[注 3]。縁起には、延喜16年(916年)に定額寺に定められるとするが、施福寺は度重なる火災で古記録が失われており、史実か否か不明である。
以上のように、施福寺の初期の歴史は伝説色が濃く判然としないが、『日本霊異記』に言及されている「和泉国泉郡の血渟(ちぬ)の山寺」は当寺のこととされ、同書の成立した9世紀前半には著名な寺院であったことが伺われる。
中世以降
正嘉年間(1257年 - 1259年)、後白河上皇所縁の法華経と仏像が奉納されたことが縁起に見え、寺が所蔵する「法華経妙音菩薩品」(平安時代の装飾経)がそれにあたると推定されている[3]。仁治年間(1240年 - 1243年)には、仁和寺菩提院の僧・行遍によって灌頂堂(密教の師資相承の儀式を行う堂)が建立されており、中世には当寺は仁和寺の支配下にあった。
南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に与した。そのため戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡した。天正9年(1581年)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われるが、後に豊臣秀頼の援助により慶長8年(1603年)に仁王門を始めとする伽藍が復興された。
近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間(1624年 - 1645年)頃に真言宗から天台宗に改宗し、江戸の寛永寺の末寺となった。江戸時代末期の弘化2年(1845年)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失。現在の本堂等はその後に再建されたものである。
Wikipediaより
コチラの文章は簡潔で分かり易く書いてありましたので「じゃらんからお借れ」しました。
和泉市の槙尾山(標高600メートル)の山頂手前(標高485メートル付近)にある古寺。約1450年前、欽明天皇の勅願により、行満上人によって開かれたとされる。修験道の開祖・役行者が、書写した法華経を葛城の峰々に安置し、最後の巻尾をこの地の如法峯に納めたことから「巻(まき)の尾(お)」と呼ばれ、これが山号の槙尾に変化したという。行基や空海もこの山で修行を積んだと伝えられ、往時は約3000人の僧を抱える大寺だったが、天正9年(1581)に焼失。その後、豊臣秀頼によって再興された。本尊の十一面千手千眼観世音菩薩像は毎年5月15日に開扉される。山麓からの参道は観音八丁と呼ばれる厳しい道のりだが、2005年12月より、ふもとの「槙尾中学校前」から小型バスが運行。日祝日は7往復、土曜と平日は4往復している。終点の「槙尾山」下車、徒歩30分。

本堂正面でございます。写真を写していたと思っていましたが「社務所」が正面右端にアリ、ここで御朱印をなにがしかのお金を払い、御朱印帳二冊と掛け軸計3筆書いて頂きました。

掛け軸の場合は、書いてもらってからドライヤーで乾かして巻き上げます。それも終り堂内を見て回っていると、拝観料500円で仏像の安置してあるところが見れるとのこと、それも札所寺院としては珍しい写真撮影『許可』の文字、これは見てこなければバチが当たる殿思いで入館、余りの多くの仏像がありましたが、仏像にあまり詳しくない我が輩は、コレはと思う仏像だけを写真に撮らせて頂きました。

先ずは、三十三ヶ寺札所のご本尊「ミニチュア観世音菩薩像の一覧」であります。

手前の手が沢山ありますのが札所札所本尊「十一面千手千眼観世音菩薩」像であります。
真ん中の弥勒菩薩が施福寺の本尊で「前向きに生きることを説く」丈六の仏様(ほとけさま)、右に配置されている仏像は

文殊菩薩像で「知恵を説く仏」で行基造立とのこと。

日本唯一「方違大観音」
悪い方角を良い方角に変えてくれるという観音さんです。
古来から転宅・転勤、結婚、家の新築、旅行等にお参りします。
槙尾山の少し南に三国山があり、紀伊と和泉と河内の三つの国の接点にあり、山頂にはレーダー基地もあり、正式な山の名前は一乗ヶ岳といいます。一乗とは一仏乗という事で当山の方違大観音の前でお参りすれば、全ての人を仏の乗り物に乗せて、良い方向に向かわせてくれるという事で、人生の大きな節目、変化、変わり目にお参りする「変化はチャンス、チャンスは変化」という事です。
仏乗という事は、自分は仏様、御先祖様に支えられて生きている事を気ずかせてくれる事で、開運招福長寿勝命の観音様です。
と説明書きが立てて有りました。今一内容文章が・・・?
他には、馬頭観音像

今から千年『少し前、花山法皇は観音巡礼の道すがら、当山への山道で大変難儀された法皇は、馬頭観音に助けられて無事槙尾山施福寺に参拝できました。
馬頭観音の馬の意味は、人間の生命力を表わし、その生命力の元は足であるという事で、、足の裏を見せている日本唯一の馬頭観音さんです。
足は第二の心臓jといわれ、現代の最先端医学では、インターバル徒歩と言って三分間ゆっくり歩き、三分間早歩きを数回繰り返すと体内のミトコンドリアとATP(乳酸)とが結びつき、生命力アップ、スタミナアップになるという研究結果があり広く実践されております。
仏教の生命観をわかりやすく説明されている、足腰を守り健康長寿の観音様です。
お守り等があります
施福寺の仁王門に草鞋のお守りがたくさん奉納されていたのが、馬頭観音さんにお願いしたもののようです・・・。
その他目に付いた「涅槃釈迦如来像」

涅槃仏とは、釈迦が入滅する様子を仏像としてあらわしたもの。寝仏、寝釈迦像、涅槃像とも呼ばれ、主にタイの仏教寺院などで見ることが出来、足の裏には宇宙観を示す文様などが描かれている。なお、釈迦入滅の様子を描いた絵画を涅槃図と呼ぶ。
堂内を見て回っていると後ろの方で何か見られている感じがしたので振り向いてみると・・・ビックラポン
と、施福寺の本堂の内容でした。
境内で食事を終えて帰りがけに「ダイヤモンドトレイル」なる看板をみて

金剛葛城山系の稜線45kmを縦走する長距離自然歩道で何日掛けて歩くのだろうと話していたのだが、この時点ではダイヤモンドトレイルの一部に入っていた「岩湧山」に行くとは思っていなかったのでした。

で、槇尾山施福寺を後にしたのでした。
で、
後日「施福寺」に参拝した事を含めて水汲みの記事を書くため大阪の和泉市を調べて見ても、汲めるようなところが見つからず、
(施福寺周辺は聞く限り地元の方は無いと言われていた)それなら隣町の「河内長野市か岸和田市」を検索してみようと・・・
取りあえず近くの河内長野市からということで見つけたノが「岩湧寺の長寿水」でした。
地図で見る限り、岩湧山の中腹にあるようで、水汲み場に行く道はどうも岩湧山の山麓を林道が走っているようで、近くにある滝畑ダムを通り林道に入る道もあったので、チョイと心細い面もあったが挑戦をしてみる事で出発しました。

途中「関西サイクルスポーツセンター」テレビに取り上げられるレジャー施設で、こんな所にあるのか・・・と思いながら横目で見て通り過ぎ、滝畑ダムに到着

そこから「夕月橋」をわたり(滝畑ダム湖を橋から見た景色)

渡りきると道路標識

道路標識が小さくて読み難いが、横谷に方面左折をして進んで行った、この頃はカーナビの指示どおり行っているのだが、少々疑心暗鬼の胸中・・・しばらくすると

手作りの道路標識「岩湧寺」方面と書いてあるので良しとしてコンナ道へと

入って行くのでした。
つづく
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