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NO283:淡路島の「牛王水」(ごおうすい)

南淡 244-1q
昨年に続き淡路島の残り「南淡方面」へ
予定としては、「なきりの清水」→「水の大師」→「午王水」→「広田の寒泉」→「神仙寺の水」→「筒井の清水」そして前回行きたかったが、略式『御井の清水』で終わった、本来の源泉に行けたらとの思いで出発(^_^)/
今回も予想通り?雪景色に見舞われた早朝であった。
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本来なら我が家の地域の方が雪が積もるのであるが、当日は小雪が舞う程度、ところが福知山市に入ると夜中に積もった形跡、福知山ICを入り少し走ると六人部SAでは写真の状況((+_+))
今回は兵庫県三田の辺りまで降っていた様子
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チョイト珍しいかな~と思いながら、明石海峡大橋を渡り淡路SAへと着いた。やはりこちらはゆの字もない景色であった。
南淡 003-1r
淡路SAに寄ったのは、インフォメーションによれば淡路の見どころのパンフが置いて有るかなと思ったからである。
とりあえずトイレへと行くと、入口の横の方で、来る人来る人にパンフの様なものを渡していた。当然吾輩も頂き、読んでみると淡路島の観光地のパンフ、その中に福良港から出る観潮船の案内
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このパンフによると、見ごたえのある時間帯しか観潮船は出航しない模様、良心的である。
この表から見れば、当日1月27日ですから午前中は当然いけない(目的が違う)。表からは午後行けそうな16:10分出向が◎であるから間に合えば乗船したいとの思いで淡路SAを出発。
まずは「なきりの清水」へ寄る事に、地図からして、前回行った「薬師庵」に近い所である。
神戸淡路鳴門自動車道の最近はやりのスマートIC淡路島中央(ETCカードだけで出入りできるIC)で下りた。
下りたのはよいが、大雑把な場所しか情報は無く、道を走っていたら
南淡 004-1y
喫茶店の看板を発見(^_^)/こういう時には地元の方に聞くのが一番、と言う事で、
南淡 005-1u
ドアを開けた。まずはコーヒーを頼み、見計らって「なきりの清水」という所を探しているんですが、この辺にありますかと尋ねてみると「教えましょうか」との返事。「コーヒーを戴いてからお願いね」と嬉しい返事。
飲み終わり、おかみさんと道まで出てもらい「この先を曲がれば水が出て石碑が立っているのでそこですよ」と御親切に教えて頂強調文き、丁寧?お礼を言って出発。付いてみると、ナント前回寄った「薬師庵の閼伽水」の所であった。
前回はこの言い方は無かったと記憶していたが、地元の方は通称この言い方を使っておられるのだろう。前回のブログも書き添えておく事にした。
ここで「薬師庵の閼伽水」を確認したところ、番号が二つダブっていたため「281→283」に変更しておきます。
歳は取りたくないもんで^_^;
で、次なる場所「水の大師」に。ここは海岸ぶちにあるお寺であるらしい。
洲本に行く途中の海岸にあるという・・・・・が、思っている所を2~3回往復してみたが見当たらない(?_?)
ここでも地元の方に聞くのが一番と、探すのだが見当たらない!そうこうしていると墓参りに来られた方に出逢い尋ねてみると、もっと洲本の方へ行けば道沿いに大師様が見えるのでそこですよ・・・との事・・・が
道を通してからは水脈が切れたのか枯れて出ていませんよ・・・との事。
でも行く事にして出発。
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発見~(^_^)v
道路はこの様に通っています
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本堂、水の大師・大師堂へ向かう石段へと
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階段の手前には
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水を汲みあげるポンプと、それに関連するパイプが張り巡らされていました。
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大師堂に着いたが水らしきものは見当たらず、境内を探して見る事に、
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と、裏山へ通じる山道が見えたので登ってみる事にした。
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海が見え出し、少し行くと
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鉄柵が出て来た。これは何かあるに違いない・・・と、思いながら奥へ行ってみると
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山の斜面に配電盤が設置されている。山道の行ける所まで行ってみた所
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ここにも配電盤らしきモノ、しかしそれだけ(-_-)、
吾輩が推理するに、工事により水脈が立たれ、地下から水を汲み上げ湧水の代わりにそれを使おうとしたが、長い年月の間にそれも枯れてしまい水の大師は、お堂だけになってしまった・・・というところか(?_?)
海岸べりは
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この湧水は、阪神・淡路大震災の影響によって涸れてしまったが、かつては不治の病に効く霊水として遠方からも水を汲みにくる人が絶えなかった。弘法大師が地に杖をついて水を湧かせたという伝説が伝わっており、海に張り出た岩に大師お手彫りと伝わる仏像が刻まれている。
由来
鎌倉時代初期の仁治4年(1243)2月4日、一艘の小舟が水の大師付近の海岸に着いた。二人の修行僧と四人の護衛の武士が乗っていた。当時の観音堂から紀州の山々を見つめながら、高野山の思い出話をして夜を明かした。二人の修行僧は、高野山正智院の道範上人と高野山悉地院の実弘上人で、道範上人は讃岐の善通寺へ、実弘上人は南あわじ市八木の成相寺へ、部下の起こした事件の責任を問われ、「島流し」の刑の途中に立ち寄ったものであった。「離れくる高野の山の霞をも 今日ばかりやは眺めくらさむ」涙ながらに道範上人が詠んだのであります。里人は道範上人のご面相、お姿が弘法大師そっくりだったので「お大師様の化身」と信じ、観音堂近くの岸壁に彫刻したと伝えられる。道範上人が駐錫以来「水の大師堂」と呼ばれるようになった。道範上人の「南海流浪記」より(高野山大学所蔵)
(あわじ観光ナビから)
水が涸れたのは阪神淡路大震災の影響と書からていますが、どちらが真実か吾輩には分かりません。また、海岸へ降りて行ったが気が無かったのか、岩に彫られた物は見る事ができませんでした。
水の大師の水は諦めて、次なる「牛王水」へと移動して行ったのであります。

「牛王水」は洲本市の里山にあるという。地図にそって行くと
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お寺(蓮光寺)が出て来た。その左の道を進んで行くと
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高速道路をまたぐ陸橋が出て来ます。さらに進むと洲本市が一望できる小高い所に到着。
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陸橋から延びる道は車一台が余裕で通れる幅があったが、道が分岐してからは
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車一台がぎりぎり通れる農道になった。手前に車をおいて歩いて行けばよいのだが、出きれば少しでも多くの水を持って帰りたいと思い、車で進む事にした。
吾輩の車が行けるとこまで行くと、小さいため池があった。
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おお!このため池が湧水の「牛王水」なのか・・・と、しかし情報元では、地蔵さんの様な真野が祭った祠が映っていた。
とりあえずため池の周りを見てみる事に
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と、どこからともなく水が入ってきている様子、その方向を探ってみると、側溝に水が流れて来ており、それがため池に流れて入っている。・・・・と言う事はこのため池には水は湧いて来ているのではなく、さらに奥に何かあるのではと
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この道を奥から手前に歩いてきたら建物らしきものが見えた
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曲がり切ると
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祠が見え、不動明王の表札が書いてあった。中を覗くと
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二対の石仏が並んで安置してあり、行けてある花やミカンも今朝供えられた様子の物で、管理が行き届いた感じの祠であった。
その右下の穴から水が出て来ていた。
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そして、水は堰き止められ
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汲み易いように整備されていた。大事に管理されている事が分るものです。
情報元からの解説は
江戸時代末期(嘉永4(1851)年)に暁鐘成が著した「淡路国名所図絵』の牛王水の項には.「いにしへ先山牛王の料の汲用ひたりといふ又傍に牛王堂の旧蹟あり.
『「牛王」とは、牛の肝の中に稀に含まれている霊薬のことで、最も優れたものという意味である』
と歴史ある場所で、水も湿疹や皮膚病に効くと言われている様だヽ(^。^)ノ

汲んでの帰りがけ、大阪ナンバーの家族連れが大きなポリタンクを持って行かれるのにすれ違った。
次なる場所「広田の寒泉」へと向かった。
写真に写っていた市街にあるはず。情報元の写真に写っていた街並みを見つけ
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車を下りて、それらしき物を探していると石碑が見つかった。
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達筆すぎて読みにくいが、どうも「淡道島の寒水」と書かれている様だ?おそらく昔「あわじしま」の漢字を「淡路(道)島」と書いたのではと勝手に推理
ネットで情報を探してきました。
『淡道島 ☞ あはぢしま(逆引き)
ここに天皇、その黒日賣に戀ひたまひて、大后を欺かして、のりたまはく、「淡道島あはぢしま見たまはむとす」とのりたまひて、幸いでます時に、淡道島にいまして、遙はろばろに望みさけまして、歌よみしたまひしく、
古事記:02 校註 古事記 (その他) / 太安万侶、稗田阿礼(著) 』
そこから人一人が通れる路地へ
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指示通り進んで行く
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厚情の路地みたいで、湧き水の水質が木になりながら着いてみると
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あわじ花へんろ  第60番「花の札所」広田の寒泉
この看板は兵庫県内の杉・間伐材と淡路瓦を使用しています・・・・と
広田の寒泉の全景
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こちらが湧いて出ている池です・・・が
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じっくり覗いて見ると
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おせいじにも綺麗な・・・・・とは言えない・・・湧出る水量も
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本来は側溝へ流れ出て行く水路だと思えるのだが、湧き出る水量が足らず水面は低い、側溝を見てみるとコンクリートの隙間からわずかではあるが水が出て来ている様だが、工場が隣接する広場(工場から浸みこんでくる不純物が入る可能性)と水のよどみから飲んでみようと思える気分にならず、ココの水も汲まずにパスする事にした。おそらく、道沿いに立っていた工場は食品工場であったから
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豆腐工場の様で、ココの地下水を使って豆腐を作っているのではと想像すると、水が出なくなった事もつじつまが合うものである。
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広田の寒泉
 日出る続きの夏や、木枯らしの続く冬、井戸水が干上がり飲み水にも困る年でも、ここから湧き出る水は絶えることなく、仁徳天皇行幸のおり奉献したほどの名水である。
 宝暦のころ、この湧水がぴったり止まった事があり、神のお告げにより不浄なものを除き、付近を清めたところ、再び清水を発見し今日に至ると伝えられる。
 何千年の昔から、今に減ることなく不思議な水で、淡路の霊水の寒泉と呼ばれている。
 この地の清水という姓もここから生まれたと言われる。
              緑風土記より
碑文銘
あらとふと あれとうときや おうみもい さくげたまわし むかしおもえば
                森崎芝吉 74才
『昔からコンコンと湧いて出ていた水が、万が一工場が立ったことで出なくなったのであれば、工場が汲みだしている水の一部を広田の寒泉にも導いて来て、昔ながらの清らかな池を復活してほしいものである。こう思うのは吾輩だけであろうか』
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鉄骨で支えられた
広田の寒泉・ムクノキ
推定樹齢:200年   高さ:12,6m  幹の太さ:2,59m   
枝幅:南北14,6m  東西9、6m
 寒泉の南、水際にたたずむムクノキの老樹。この社叢(ソウ)では一番の古木だ。
よくみると、北東へ傾く主幹はゆっくりと下向きの弧を描く。若い時は今とは反対の南東側傾き、上に行くにしたがってまっすぐに天を目指していたらしいということは、そのころはこの森はもっと大きく暗かった。水面を覆っていた大きな樹はやがて枯れた。水際で北東側に支持根がなかったムクノキは台風等でバランスを崩し、少しずつ北東へ傾いていった。その間、必死に倒れまいと重力に逆らって生き抜いてきた。主幹の背の盛り上がりと、それに続く西や南西へ張る支持根がそれを物語る。
 主幹手前は縦に細長く枯れ開口となり,内部は大きな空洞である。長い年月のいつの時か、台風等の強い風で東側上部大枝が折れたのか、あるいは雷で打たれて枯れたのであろうか。それがもとで主幹内部の腐朽空洞化へと進み、幹東側が枯れ下がり開口へと進んだ。開口空洞部両側の肉厚は太く肥大成長している。東側枯れ下がりによる強度不足を補う為、ムクノキが必死に努力している結果である。
 与えられた環境、変化する環境にゆっくりとであるが着実に対応し、自分と戦っている姿がある。
 この寒泉の水は過去幾多の人々の生活を支え守ってきた。そして、この水で育まれたムクノキの実もどれほど多く鳥たちの命をつないできたきただろう。ほんとうに我々が大切にしなければならないものがここにある。
もう一つの文章はムクノキの解説なので書き出しはやめますが、自然の姿から人間の生き方を示唆する内容は一読する値があるものです。

現状の湧水を飲む事に気が引けた吾輩は、水を汲む事はせずに次の訪問地「神仙寺の水」を探しに再度車を進めて行ったのでありました。
ココまでの結果一勝三敗であります。
洲本城(再建)の下を通り、南淡 065-2f
洲本温泉街を過ぎ
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「神仙寺」を目指して走っていると
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日本で一箇所しかないUFO神社の看板を見ながら走って行くと淡路推薦教の一つ
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立川水仙郷へ到着。山が海まで迫っている斜面にへばりつくように咲き誇っている水仙
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遊歩道で水仙を散策
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部分的に時期が過ぎている所もアリ一面とまではいかなかった。
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遠くに見える建物の中には
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おしべとめしべのことをまなぶところ「淡路島ナゾのパラダイス」
看板を見た内容から察して(?_?)・・・吾輩は遠慮してパス・・中は謎
謎と言えば「探偵ナイトスクープ」も三度も取材に来たらしい「おなかがねじれる程、笑います」18歳以上の方無料ではいれます。
18歳以下は有料・・・・なのか?・・・は知らない。
そしてこちらがUFO神社
南淡 100-2n
ここの物は手作り感満載の者ばかり、こちらも
南淡 097-2m
こちらの「健康長寿観音」しかり、なんか庶民的でいいで~す。ヽ(^。^)ノ
4ji
10分の観潮船に間に合わせる為、そそくさと水仙を観賞して立川水仙郷を後にして
南淡 102-3q
降りて来た絶壁を再び上り一般道へ、峠道から海岸道路へと
南淡 103-3w
海岸通りを走っていると、淡路モンキーセンターが
南淡 105-3e
行きたい気持ちを押さえてパス。(=_=)さらに走って行くと
南淡 106-3r
こちら黒岩の水仙郷、こちらの方が有名らしい。
見ても同じだろうとこちらもパス。すると道端に何か動くものが・・・近寄ってみると
南淡 107-3t
よちよち歩きの海鵜、車などお構いなしに我が道を・・・シッシッと止めて、その間に通り過ぎ「神仙寺」の入口に到着。
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「南あわじ市・灘黒岩」が正式名か、ここに『淡路西国8番・神仙寺』と
先程通り過ぎてきた、黒岩水仙郷へ行く為の駐車場になっており、ここからシャトルバスが出ていました。
ココの山間と言うか、谷間から入って行くとスグ道幅は狭くなり
南淡 109-3u
山の斜面を這うように伸びる道を上がって行くと
南淡 111-3i
20軒ぐらいの集落が出て来た。遠くは紀伊水道の見晴らしが良い
南淡 112-3h
しかしこんな所に住んでいて、今でこそ車で街に仕事に行けるが、その昔にはどんな仕事で生計を立てていたのか、このような所を訪れるといつも疑問に思うのである。
その集落のはずれに
南淡 115-3p
バス停の様な看板に「神仙寺」の看板が見えた。
左の石垣を見ると
南淡 116-3a
お寺のお堂が石段の奥に見えた。これだ!と、上がって行くと「お寺の本堂」
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湧水があるかいな~と境内を見回したがそれらしきものは無い、フト、別の階段を覗いて見ると
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下界にそれらしき小屋が見えた。早速下りてみると
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小屋の中に砂地の底を隠すかぐらいの水たまりが、しかし、水が動いている気配がなく、周りに置いて有る水汲み用の柄杓も使われている形跡もない、小屋の前に作ってある桝も
南淡 120-3g
水が流れている様子がなく、このような水は「死んでいる」水だと思っているので汲む事は諦めた。
しかしなぜこれだけ広い水槽に水がないのか・・・枯れてしまったのか(?_?)
南淡 121-3f
小屋の前は広く、昔使っていた作業用モノレールも朽ちていて、動いている様子も無い。
その駐車場になっているコンクリートにはマンホールの蓋が設置してあり、もしかすると、コンクリートの地中に水槽が作ってあり、湧き水を溜めているのかも・・・それを集落の飲み水として活用されているのかも・・・と、勝手に想像して「神仙寺の水」も汲む事ができず後にする事になった。
南淡 122-3z
帰りは下から車が上がってきたりして離合するのに手間がかかり結構時間が掛かり海岸通り(淡路水仙ラインと言うらしい)に出てきたのが3時半前であった。福良港に4時10分に着けるかどうか心配で、最後の「筒井の清水」は後回しにして港に直行する事にした。
なんとか、うずしおクルーズには間に合い乗船する事ができホッ!(^^)!
うずしおクルーズは、今回で三度目!これまでの二回は四国の亀浦港からの乗船。
一回目はだいぶ前の事であまり覚えていないが、渦が期待していたほど大きくなかったので「な~んだこの程度のモノか」とおもっ記憶はあったので、二回目は海中から見える渦潮と銘打った、船底がガラス張りになった船に乗って見学したのであったが、これももっと海中まで渦が巻きこんでいるところが見えるのかと思いきや、チョロチョロと渦の泡が見える程度であった。
そんな折、淡路島側から帆船が現れうずしおクルーズをしているのを見ていたので、高い位置からの渦潮を見るのも良いかもしれん・・・と、また帆船というあこがれもあったので、今回三度目であったが乗船する事にしたのであった。
見出しの帆船は「日本丸」を模して造られた船で、吾輩が今回乗船した船は「咸臨丸」船長が勝海舟で有名な舟です。
南淡 123-3x
出航までの間、船員さんがカモメかウミネコかどちらだ判らないけど、餌をやっていたので
南淡 128-3c
舟に寄ってきて戯れていた。この光景は、最近の観光船ではお馴染みの後継で、地元の伊根湾「舟屋めぐり」クルーズでも、餌を売っているほどである。カルビーノえびせんが長くて丁度イイのではあるが。
南淡 131-3v
子どもがよって来ると、船員さんはエサを渡して船内へ消えて行かれた。これも乗船サービスでお客さんを楽します行いであろうと思った。
南淡 134-3b
吾輩がカメラを構えて居ると、餌の催促に
南淡 132-3m
手すりに止まりこちらを見ているので、餌の代わりにハイパチリ
そうこうしているとあわただしく船員さんが駆け回り出航の準備、
南淡 135-4q
船が動き始めると、会社の職員さんが、大きな手のひらの作りものを持って我々を見送ってくれた。吾輩もつられて船から手を振ってしまっていた。
南淡 136-4w
結構長い事見送ってくれていた。これもお客様サービス・・・・おそらく毎回されているのだろう・・・ご苦労さまデス
南淡 140-4e
カモメ?も舟を見送ってくれています。
南淡 141-4r
航跡を残して岸壁が遠ざかって行きます。


  つづく
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NO280:大阪府柏原市の「清浄泉」(浄井戸)

柏原のめいすい 018-1q
新年2回目の水汲みは、大阪府柏原市に湧き出ている「清浄泉」へ行ってきました。
以前、信貴生駒スカイラインを走っていた際、信貴山という一大仏教寺院のパノラマを横目で見ながら、又の機会行ってみようと思っていた所、詳しくは「信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺」(しぎさん ちょうごそんしじ)と言うらしい。
本来は、所在地の天然水を探して頂いてくるのだが、奈良県平群町内に見当たらず、大阪川の柏原市に「清浄泉」という名水がある事を見つけ、そちらで水を戴いてくる事にした。
今回も、信貴生駒スカイラインを使って行く事にした。
img152-1w.jpg
地図で言えば、北から南まで全線を通れば、1340円かかり、生駒山山頂(遊園地)で二分されている。
当日は天候も良く大阪平野が一望できる良い日であった。
柏原のめいすい 003-1e
今回は、余り寄らず一直線で信貴山料金所へ、その近くの駐車場へ
柏原のめいすい 005-1e
正月明けの成人式連休の日曜日で駐車場に入るのにごった返しているかと思いきや、すんなりと入れて拍子抜け、まあ、それの方が良かったのだが・・・
その近辺の雰囲気は
柏原のめいすい 011-1t
ダム湖が谷底を覆っており
柏原のめいすい 010-1y
この赤い橋は、県道の橋で、境内に入って行くには、
柏原のめいすい 007-1u
こちらの開運橋と呼ぶ橋を歩いて境内に入って行きます。いかにも宗教色の呼び名である。
昭和6年に開通し「カンチレバー」と呼ばれる構造をしている。(カンチレバーとは片持ち梁の事で、梁の片方だけ固定されており、他方は動く構造の事)
戦前の上路カンチレバー橋はほとんど残っておらず、現存する橋では最古の物となり、国の『登録有形文化財』に指定されている。
この橋の中ほどで鉄骨の工事をされていたが
柏原のめいすい 012-1i
ここからダム湖めがけて飛び降りる、バンジージャンプのヤグラらしい。以前から営業されていたかどうかは定かではないが、もう少し暖かくなれば、賑うのかもネ。
境内に入ったところに境内案内図が
柏原のめいすい 013-1o
思っていたより広く、どこまで回れるか不安であったが、出発!腹ごしらえに「やきもち・みたらしだんご」の出店も
柏原のめいすい 014-1p
取り巻いているのは女性ばかり・・・と言えば叱られるか・・・も
柏原のめいすい 016-1a
堂々の神仏習合の世界,,参道を進んで行くと再度鳥居が
柏原のめいすい 017-1s
扁額には多聞天と書いてあり、毘沙門天と同じ言葉らしい。
ウィキペディアから
日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒天にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。
くぐるとジャンボ寅の張子がお出迎え
柏原のめいすい 019-1d
寅の関わりはこちらから(信貴山 朝護孫子寺HPからお借れしました)
今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。
そして、そこからそびえ立つ朝護孫子寺の本堂(下記説明文はHPヨリお借れしました)
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醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。
しかし、毘沙門天王は仏教「四天王」の一つ、何せに鳥居の扁額に書かれているのだろう(?_?)
寅を過ぎると「赤門」
柏原のめいすい 022-1g
を入ってお寺の境内に
吾輩にはよく解らないのですが、信貴山には大きなお寺が三ヶ寺あり、「千手院・成福院・玉蔵院」千手院のHPでは、『塔頭(たっちゅう)形式とは、一つの本堂を多くのお寺(子院)が兼用する寺院形式をいいます。千手院はその中の本堂を持つ塔頭寺院』との事、境内ではそれらの寺々を廻る通路が碁盤の目?のように張り巡っており、吾輩は時計回りで廻る事にした。
総ては写真に収めきれていないのでご了承を(~o~) 
通路の雰囲気を
柏原のめいすい 024-1s
綺麗に並べられた石灯籠を歩いて行くと
柏原のめいすい 026-1d
で、日本に二本しかない銀杏
柏原のめいすい 025-1f
  千手の公孫樹 仏手白果 樹齢500年
樹の枝振りが千手観音の手に似て、又銀杏の形が仏の合掌される両手に似ているところから千手の公孫樹(いちょう)、仏手白果(ぶっしゅはっか)と名づけられた。中国産の品種で、日本では宮崎県高千穂の岩戸神社の境内にある一本だけとされてきたが、昭和58年7月学者により偶然発見された。日本で二本目の極めて珍しい巨木である。
写真が上手く撮れてない為立派な樹木に見えないのが残念(-_-)、ソコからの風景
柏原のめいすい 027-1g
日本一大地蔵尊と三重塔が見えます。境内に入ると結構目立ちます。
さらに少し進んだところにも
柏原のめいすい 029-1h
こちらは樹齢1500年との事
柏原のめいすい 029-1h
   神木「榧の木」
 今を去る1500年(西暦480年)の昔、日本の国は氏族制度で曽我一族と物部一族が政治の実権を握る為争っていた時代である。
 時にこの地に一粒の榧の実から若芽が誕生したのである。それはこの榧の木であった。
 それから百年後、曽我馬子は仏教の普及に努力せんとしたが、物部守屋はこれに反対し双方の対立抗争はついに長く苦しい激戦となった。
 この時、聖徳太子は守屋討伐のため自ら陣頭に立ってこの地に進み毘沙門天王を感得され、その御加護で物部郡を降伏させ日本の仏教が栄える礎を築かれたのである。
 以来、樹齢1500年の神木榧の木は世の有為転変を語らんとするや、ひたすら黙して語らず。
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正面に見えるのは「正福院」の融通殿です。
詳しくはHPを見て頂くとして
祀られている如意宝珠(如意融通宝生尊)は、「融通がつく」とか「融通がきいた」と言う言葉の源の由来とされているらしい。
こんなモノも
柏原のめいすい 038-1x
中には大黒さんが祀ってあります。熱心に手お合わせておられる元には、見えにくいが金ぴかに輝いている打ち出の小槌が置かれ、撫でると願いが叶うという「撫で小槌」でそのために光っている様である。
こちらの銅像は
柏原のめいすい 039-1c
「寅大師」と言われ、
 昔より大切なお金のことを「寅の子」と云います。この修行大師は別名「寅大師」と言われ、傍らに「撫で寅」があり、足を撫でれば出ていったお金が直ぐもどる、頭を撫でてはボケ封じ、牙を撫でては立身出世、尻尾を撫でては延命長寿のご利益があります。後述の「撫で小槌」ともども是非、「撫で」てご利益を受けてください。 (成福院HPより)
で吾輩は、寅大師に因んで之を買いました。
柏原のめいすい 128-1b
と言うのも、細かいお金がなく、お賽銭に使うために小銭を造りたかったのが本心であった。一通りお賽銭も撫でる所も撫でて、次なる三重塔へとくぐって行ったのでありました。
柏原のめいすい 040-1v
三重塔がある境内は「玉蔵院」となるようです。
柏原のめいすい 042-1b
「玉蔵院」の縁起は、
鎌倉時代、興教大師覚鑁(かくばん)上人がこの山に参篭された時、毘沙門天さまよりありがたい摩訶不思議な玉『如意宝珠』を授けられ、この寺に蔵められたことから『玉蔵院』と呼ばれるようになりました。
この石段を上っていると、おもしろい石像が・・・
柏原のめいすい 043-1n
石の光具合から大理石の像だと思うのだが、噛んでいる石は札束に似せている様子。それに硬貨が挟まれているとは・・・
で堂内(三重塔は玉蔵院融通堂と言う)に祀られている「如意融通尊」
柏原のめいすい 044-1m
撮影禁止とは書いてなかったので写しました。厨子は御開帳されていません。
この玉蔵院融通堂の後ろに日本一大きい地蔵尊が安置されているのだが写っていなかった。
この場所からの境内を見渡せば
柏原のめいすい 046-2q
遠くに本堂が見えますが、広さも判ると思います。
そして少し移動したとこでは
柏原のめいすい 048-2w
この石仏、なんなのかよく分らないが、多くの方が並び、熱心にお祈りされていました。
吾輩はそこまで熱心ではありませんので素通りして道なりへ。詳しくは「玉蔵院」
柏原のめいすい 051-2e
ここを通過して奥の院方面へ
柏原のめいすい 052-2t
鳥居が乱立する中を次第に山中へと
柏原のめいすい 053-2y
山登りがきついと分かっていてもツイツイなぜか足が向いてしまう。
なんだかんだと思いながらも残り三丁
柏原のめいすい 055-2u
「ひーはぁー、ひーはぁー」と上っていると、当然多くの方たちに追い越されていく。その中に真鍮の手提げポット(ここではそう言うらしい)をぶら下げて上って行く人に出会った。疑問に思い、休憩されている方に尋ねてみると
「麓の境内に在る水屋から、水の無い山頂の空鉢様(空鉢護法堂・奥の院)に水をお供えするために、備え付けのポットに入れてこの水を空鉢護法堂(奥の院)まで持って行かれるのです」のこと。
この世界も、御利益を得るためにいろいろな方法があるもんだと感心!
そして
柏原のめいすい 058-2i
残り二丁の石標、奥の院が近い雰囲気がしだした。
そうこうしてるうちに
柏原のめいすい 061-2p
福徳地蔵尊が祀ってある場所に、子の裏手には信貴城跡地の遺跡が
柏原のめいすい 062-2a
  信貴山城 平群町指定文化財・平成五年四月12日指定
所有・管理:信貴山歓喜院朝護孫子寺
 標高433mの信貴山雄嶽を中心とする山城で、東西550m南北700mに渡って120以上の郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世城郭。
 空堀の切り遠し堀、土塁、門等の城郭跡が良く残り、特に高櫓跡は著名で、中世末、識豊期直前の山城跡として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡。
 信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要所地として幾たびか築城が繰り返された地である。古くは天智朝における高安城中心城域となり、中世には護良親王(もりなか)が鎌倉幕府軍対抗拠点とするなど戦略的重要な位置にあった。
 その後、戦国時代に木沢長政、松永秀久が築城入場し大和を抑える本格的な山城として整備される。
 天正5年(1577)、松永秀久が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け50日間籠城、10月10日に落城。
 その後廃城となる。
            平群町教育委員会
柏原のめいすい 064-2s
伏見の「お稲荷さん」にある千本鳥居の様な所をくぐると「奥の院」に到着
全景は写せませんでしたが、堂内では一般の方が何かを唱えられていました。
柏原のめいすい 065-2d
水を運ぶポットがかかっていたのですが、写してなかったようです。
奥の院の周りには、小さな神社が?
柏原のめいすい 066-2f

柏原のめいすい 070-2g
面白いのでは
柏原のめいすい 069-2j
大きな石が安置されていた。何のイワレがある石なんでしょうか(?_?)
本堂には、展望台もアリ
柏原のめいすい 067-2g
下界が見渡せます。下界からは
柏原のめいすい 098-2h
展望台の赤い柵が見えます。
そして、奥の院から下って来て下界の境内に、
柏原のめいすい 077
これが水屋で
柏原のめいすい 079-2z
柱に張り紙が「空鉢(くうはつ)さん」には水が有りませんので、お詣りの方は水をポットに入れてご持参のうえお供え下さい。
空鉢堂
張り紙の横に見える真鍮の入れ物がポットです。
どうも吾輩は境内を回る順路が反対だったようです。この水を板がいて帰ろうかと思ったのですが。奥の院にも持って上がっていないのに失礼にあたると思い今回は『泣く泣く』断念しました。・・・・が本来、湧き水ならお水に名前、例えば「閼伽水」と書いてあるのだが、そのようなものは書いてありませんでしたのでパス。
で、本堂へ
柏原のめいすい 076-2x
この石段を上ったところが「信貴山 朝護孫子寺」となります。
柏原のめいすい 080-2c
石段を上がり切った所から右の回廊を進むと
柏原のめいすい 082-2v
本堂の正面へ出ます。本堂の中は写真を写すのが気が引けるので、ここから
柏原のめいすい 084-2b
HPからおかれしました。『大般若祈祷が毎日行なわれている本堂は、文禄年中(1592)豊臣秀吉により再建、または慶長7年(1602)秀頼の再建とする説があり、定かではありません。後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。舞台造りとなっており、そこからは大和平野が一望でき、素晴らしい眺めとなっています』
柏原のめいすい 083-2n
老若男女それぞれスマホで写しておられます。吾輩は「水汲み」という大事な仕事が残っていますので、ここから引き返しましたが、本堂の中を巡る「戒壇巡り」HPから
『覚鑁上人が約800年の昔、当山において唯一納めたという如意宝珠がお祀りされています。本堂階下の暗闇の中を進んでいただき仏像にお祈りし、次に進んだところの錠前に触れてください。心願成就のご利益が大変あらたかです。是非ご入壇ください。』
との事です。
帰り際先程の石段の縁に、重々しい扉で塞がれている「閼伽水」が
柏原のめいすい 085-2m
レバーを開けて覗いてみようかな・・・と思ったが、バチが当たると怖いのでやめにしておきました。
石段からの境内の様子
柏原のめいすい 086-3q
そして帰路に
厄除け観音
柏原のめいすい 089-3w
と、銭亀善神
柏原のめいすい 092-3t
幸運の臼:子の臼は言うことなく、雲のつく石臼と言われています。「ウン!」と言って軽くつき、よい運を授かってください
そして、こんな石も
柏原のめいすい 090-3r
この石に腰を掛けると・・・
昔より下の世話にならないと、言い伝えられています。是非お座りください。 
                         大本山 千手院
通路となっている、福授:三寅の胎内くぐり(父寅・母寅・子寅)
柏原のめいすい 091-3t
何が三寅なのか判らずじまいで出て来てしまい。帰る方向へ歩いていると、多くの人が集まって何か待っておられる様子
柏原のめいすい 094-3y
少し見物していると、山伏の方が信者さんに身体をさすって御祈祷されているように見えましたが。
柏原のめいすい 095-3u
「千寿院」での正月の行事「柴灯大護摩供」を1日~6日まで行われていたものでした。
ココを最後に「信貴孫子寺」の境内を後に目的の「清浄泉」がある大阪府の柏原市へと向かった。
大阪方面へ降りて行く道は狭く対向車が来ると、譲り合ったりして結構時間が掛かり、ようやく大和川沿いに出て来た。
プリントした地図を持って行ってたので、大体の方向は判ったのだが、昔の道を利用して宅地開発されているものだから、国道170号東高野道路から何本も車一台が通れる路地が山側へ伸びていて、どこの道へ入ればよいかコンガラガッテ判らなくなり、適当に入って行くもそれらしきものは無く、ちょうどゲートボールの帰りの老人にお訊ねしたところ筋が一本間違っているとの事、その方曰く「清浄泉」には以前は多くの方が汲みに来とられたが、最近は少なくなった」と残念そうに言われていた。
目標は石神社(いわ)の大木との事、気を取り直して国道まで引き返し、それらしき路地へ進入、ところが突き当りまで来ても大木は見当たらない。そこで適当に右に曲がり進んで行くと
柏原のめいすい 099-3p
大木ハッケ~ン・・・・これはすごい(@_@;)
とりあえず大木と石神社におまいりしてから水汲みに行く事にして
柏原のめいすい 109-3a
大木に巻きつけてあるしめ縄に、お触書が下がっており
柏原のめいすい 110-3s
お願い:この神木に傷をつけないでください。
この楠木は、樹齢800数十年の昔より私達を見守ってくれています。
天然記念物の指定も受けています。
ご神木を大切にいついつまでも、みんなで見守って行きましょう。
いや~大木はいつ見ても気持ちが良いものです。
そして、その正面にある「石神社」へ
柏原のめいすい 108-3d
式内社。大平寺の鎮守の森。シンボルのクスノキは樹齢600年と伝わる天然記念物です。夏祭りには大小二基の「ふとん太鼓」が神社を拠点に地区を回ります。紫檀、黒檀でつくられた重たいふとん太鼓を担ぐには地区自慢の団結力が試されます。
柏原のめいすい 111-3g
鳥居をくぐり
柏原のめいすい 113-3j
石段を上り本殿へ
柏原のめいすい 116-3h
ここでも参拝をして帰ろうかなと、境内を見渡すと
柏原のめいすい 118-3k
彫り物の大黒様が飾ってあった。その下に
柏原のめいすい 114-3l
ふくみ大黒(大国主命)様
 この大黒様は、石神社の境内の樹木の伐採、剪定等により生じた、ご神木(樹齢約百有余年の「白樫」の一部」)を、彫刻されたものです。大黒様のご神体はひび割れ等により少し痛んでいますが、その傷を一人一人が慰撫し癒すことによって見事「大国主の命」として再生されます。「みふく大黒」と名付けられ、ここ石神社の一隅にお鎮まりしていただきました。まず自分自身の身体を清めて氏神様に七難即滅七福即生マル福を頂いてください。
邪心の多いい吾輩に福が頂けるかどうか(?_?)でござる。
柏原のめいすい 119-3l
石神社を後に水汲みへと移動して行きました。
柏原のめいすい 102-3z
先程も書きましたが、車一台が通れる道幅なもんで、車は神社の駐車場に置いて、何時ものようにリュックに3本ペットボトルを入れて向かいました。
柏原のめいすい 105-3z
宅地の壁を見ると水がにじんでいるという事は、湧き水が豊富な所だな~と思いながら到着してみると
柏原のめいすい 103-3x
近所のオバサマが清掃をされていたので終わるのを待って、ペットボトルに蛇口から頂きましたが、水道の蛇口をひねるとモーターの回る音がしていたので、井戸に溜まっている水をポンプアップしているようでした。
横に祠があったので、賽銭を納め
柏原のめいすい 100-3c
無事今日の目的達成という所で我が家に向けて車を走らせた。
柏原のめいすい 101-3v
清浄泉(浄井戸):
 この井戸の水脈は生駒山地の地形生成時に生じた岩盤の節理に沿うものです。岩盤が地表近くなり、上面に湧き出る清泉水です。
 今から1300余年前、このあたりに河内六寺が甍(いらか)を連ねていました。その中の「智識寺」がこの井戸の近くにあり、東大寺の大仏の手本とされた大きな仏像がありました。聖武天皇、孝謙天皇、称徳天皇が行幸され、智識寺の南には「行宮(あんぐう)」が造られました。昔から天皇や僧侶、村人がこの井戸の水を飲み水として使っていたものと考えられます。
 俗説に、空海(弘法大師、真言宗開祖)がこの地を訪れて、この井戸を掘り起こし、付近の住民や農作物を干ばつからから救ったとの伝えがあり、今も「大師の水」として貴重がられています。
 この清浄泉は、歴史的に大切なものであると認められ、井戸と水脈を含む地域が、昭和58年5月2日大阪府文化財保護条例に基づいて史跡に指定されました。
       昭和58年6月
            清浄泉(浄井戸)保存会  柏原市教育委員会
こちら「ふとん太鼓」
「清浄泉」の独断と偏見の評価
宅地が開発され、周りに住宅が立ち並び湧水・地下水には環境が良いとはいえれなく、このような場所では大腸菌が入っている確率が多いいですから、かならず煮沸して飲んで下さい。残念ながら飲みごたえとしてはイマイチでした。近所にある「水呑み地蔵院・弘法の霊水」が美味しいので、ここは少し厳しいのでは・・・・・と思いました。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
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