NO225:喜八河戸

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昨年夜叉ヶ池に登った際、滋賀県の木之本から国道303号線を走り岐阜県の濃尾平野まで出て行ってみたい思いが湧きあがっていた。
その思いを、谷汲山華厳寺の桜と近くに在る日本三大巨木「薄墨桜」を観に行きがてら、湧き水も手に入れてくる計画で行く事に、コースとしては「木之本→徳山ダム→薄墨桜→華厳寺」の予定で出発
今回は車で移動する事が主な行動の為、時間的には余裕がありAM7:00時ごろ出発。
一路舞鶴若狭道を通り滋賀県の木之本まで約二時間チョイ、そこから国道303号線を進み、前回来たことのある道の駅「夜叉が池の里さかうち」を通り越して国道303号線沿いにある横山ダムに着いたのが10時前
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この横山ダムの集落旧藤橋村(現揖斐川町)に第一の水汲み場「喜八河戸」が在るらしい。とりあえず横山ダムを見学に降りて行くと、伝説の岩「はたご岩」なるものがダムの放流口近くに在るとの事、
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この大岩がそうらしく、説明書きには
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  はたご岩と夜叉竜神
この岩は揖斐川を舞台にくり広げられる有名な伝説「夜叉が池」にまつわる由緒あるものであります。
むかし、美濃国安八郡の長者安八太夫の願いをいれて、旱魃(かんばつ・ひでり)に雨を降らせた夜叉ヶ龍神に望まれ娶られた太夫の三女が、竜神に従い、身を蛇身に変じて揖斐川をさかのぼって、この地まで来ると、この大きな岩に入って一夜を明かしたと云われております。
夜半になって竜神たちはこの岩に登って蜿蜿とのたうちまわったためたくさんの溝跡ができたと伝えられています。
おそらく別離の哀しさに夜叉姫が身もだえして一夜を明かしたためでもありましょうか。
夜が明けると姫は岩の上の大きな窪みに溜まった水を鏡としてくしけづり身づくろいをしました。
その窪みには「びんだらい池(髪洗い池」と伝えられています。
この岩を土地の人々は竜の旅籠(はたご)の岩として「はたご岩」とも「竜宿岩」とも呼んでおります。
あるいは、夜叉姫が機織(はたおり)が上手であったことからここは機(はた)を据えて機織りをしたところとも云われ
「はたご岩」と名付けられたとも伝えられています。
この神社は(祠)夜叉竜神を祭(祀り)り八月十六日には
藤橋村住民一同参詣の上で祭典がいとなまれます。
ちなみに夜叉竜神は、雨乞いの神として特に中部地方に崇敬の多い神であります。
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岩に登ってみた。所どころ窪みに水が溜まり云われてみれば鑑にもなるような水面・・・が、昔は綺麗だったのかも(?_?)
写真には写っていないが、雨も降ってないのに水がわずかに水たまりから流れ出してきていた。
前日の雨の影響カも知れないが、案外岩の中から水が湧き出して一年中水が溜まっているのかも、この珍しい大岩をこのような言い伝えで後世に岩の保存を訴えていたのかも・・・と推測してみた。
で、「喜八河戸」(きはちこうど)はこの集落の旧道の中にあると情報元には書いてあったので、車をゆっくり走らせて進んで行くと旧道と国道の合流に
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それらしき雰囲気の水溜が見つかった。周りを見てみると古い石碑や地蔵さんが安置してある。
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東横山開祖之碑と
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水溜を覗いて見ると
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湧水の量が少ない様で、流れ出ている水が少ない・・・・・それに、岐阜県の名水に指定されているにしては名前の書いた看板もない
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丁度道を隔てた所に土建屋さんが、恰幅の良い社長さんらしい人がおられたので尋ねてみると、快く「喜八河戸ならその水と違い旧道をさかのぼった合流点に出ている水ですよ」と、
まぁ、こちらも湧水ですよと教えて下さったので、1本汲んでそちらの方へ移動
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     岐阜県の名水:喜八河戸
 寛弘2年(平安中期)の頃、当時は庶民の近寄り難い有名な陰陽氏、安倍清明が諸国巡遊の途中、当村の住民喜八の家へ宿した折、湧き出る清水の効力を褒めて以来。如何に長い日照りが続いても涸れることなく、夏冷冬暖で古くから村人たちに最適の生活用水として使われ、水道が引かれた今日でも、日常生活に欠かすことのできない水として、また、コミュニケーションの場として利用されている。
 また、この清水は単に生活用水にとどまらず「薬効のある水」としても知られており、この水を万病に効く不思議な水として、飲用している人も多いいと聞いている。
岐阜県の名水:岐阜県は県下の優れた水環境を50ヶ所選び、地域保全活動の推進を促し快適な生活環境作りに資すことを目的として昭和61年12月12日に認定した。
         藤橋村
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道より一段下の窪みにあり、車では見つけにくい場所であった。不動明王の石仏の奥から
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湧水としては結構な量がコンコンと出て来ていた
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地域の人達に大切にされている様で、霧図為場もきれいに整備されていた。
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その横には、今は営業しているか疑問を感じる喫茶店もあり、おのずと湧水に期待が膨らむ事となった。
一つ目の湧水は無事汲めて、横山ダム湖沿いに徳山ダムへ向かった。
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ダム湖の上流徳山ダムの手前で、場違いな建物をハーケン(・・?
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山には残雪も見えているが、4月9日でも、ここへ来るまでにも路肩に雪が残っていた。
お城は藤橋城と呼ぶ、中には西美濃プラネタリウムが入っているらしい。その横には天文台「西美濃天文台」があり、「日本珍スポット100選」ここのブログに建物が出来た時の裏話も・・・。  
 

  つづく 
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NO224:宝泉寺水

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飲み会で水汲みの話をしていたら、まだ地元の名水で知らない所が有るのを知り、汲みに行くついでに、以前から行ってみたかった「石川五右衛門」の居城であったといわれる、「伊久知城」跡も案内してもらう事にして出発した。
現与謝野町合併前旧町野田川町の一つの地区に市場地区があり、その中の八幡神社という氏神さんとその横に曹洞宗・宝泉寺というお寺が隣り合わせで建っている。
話を聞いた時は、八幡サンの石段の横に出ていると聞いたもんだから、てっきり神社の御神水だと思っていたが
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案内されていってみると
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宝泉寺の方であった。本堂は
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こじんまりした大きさで、その横の庫裡
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から神社に抜ける通路に蛇口が備え付けてあった 
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注意書きが張ってあり
「水を飲ませてください」といちどことわったならば、へんじがなくても飲みなさい。
二人以上のときは一人だけ声をかけて飲みなさい。
水量に制限のある井戸水ですが~、無駄つかいは固くおことわり(住職)
という事で、この宝泉寺水は井戸水をポンプアップしていました。
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次に、「伊久知城跡」に案内してもらい、そちらの方へ
この石川五右衛門の話も、飲み会の時に「オヤジから我が家は石川五右衛門の末裔だと小さい時に聞いていた・・・」
と言いだした人がいたから行ってみたくもなった事もあったのである。
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石碑の後ろに据え付けてある獣防護柵を開けて入って行くと
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道なき道を進み
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それらしき道に出て、さらに登って行った
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倒木も有ったりして、苦労して登って行ったら
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案内人もビックリ!立派な山道へ出たのであった(^_^)v
なんじゃこりゃ・・・と案内人にブツブツと・・・、さらに頂上へ向かって歩いて行った。
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祠の横に、大きなお釜が置いてあった。
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祠の前の狛犬は狐の石造になっているから、案内者いわく城跡に稲荷神社を建てたのではと、遠く正面には大江山連邦バッチリ
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息が収まるのを待って、下山はモチロンいい参道
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道まで下りてくると、登り口より100m程離れた所、元の場所にたどり着くと登り口の横の民家のオジサンが出迎えてくれた。
イロイロ話をしていると、年間何人かの方が当地を尋ねて来られ、説明を求められるとの事!
そんな事もあり、こんな資料が有ると
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チョット長い文章なので全文は書き出せないが、まぁ内容も今一の所が有るので要約して書けるだけ書き出してみます。

名所をたずねて:石川五右衛門
 「しのびのもの」で急にその名をはせた石川五右衛門は、その実、出生が我々の在住する野田川町(旧町)であると聞き、ビックリされた方もあろう。
 私も、うすうすその話は伝え聞き知ってはいたが、それが広く世に知られるようになったのは、今から四年前、丁度私がまだ学生生活を横浜で送っていた時東京放送が、「アア!忠臣石川五右衛門」を、ラジオスケッチで流してからである。
 「石川五右衛門について、加悦谷高校の金久先生はかくの如くおっしゃる・・・郷土史研究家の浪江重雄さんは・・・と」とやりだした。懐かしいふるさとのなまりを耳にして、思わず御飯かんでいた口がとまったものだ。昭和39年11月25日の事である。
 読売新聞東京本社から、記者一名が当地を訪れ、野田川町幾地が石川五右衛門出生の地として、週刊読売を通じて全国へ紹介されたのは、それから間もなくしてからである。
 去る7月、その浪江さん宅を訪れ、レコード版とされて東京放送から送られてきた、当時の懐かしい放送を聞きながら、色々、石川五右衛門について語っていただいた。
 時は天正6年、織田信長は長篠に武田を葬り、すぐさま丹波を福知山の明智光秀、単語を田辺(舞鶴)の細川藤孝に平定を命じた。だが、織田信長の天下になるまでは、室町幕府の足利氏末流の一色氏が、丹後85城を、240年にわたって支配していた為に、細川の丹後平定は以外に手間取っている。
 丹後85城の内の一つが、伊久地城(幾地)で、城主が五右衛門の父親左衛門尉秀門であり、一色氏の重鎮であった城山の地形は要害を極めていたとされ、現在の市場小学校裏養源院裏山と目されている。石川氏の系図を見ると
石川秀門ー7代後ー秀吉ー秀門(左ェ衛門尉)-【嫡子:文吾秀澄・娘:菊寿ー家老:坂根斉・五郎右衛門】
丹後平定にしびれを切らした光秀の奸智で、一色義俊に細川藤孝の娘を嫁がせる。藤孝の息子忠與夫人は光秀の娘でもあるから、明智光秀、細川藤孝、一色義俊三家は、姻戚関係を結んだ結果となった。
 やがて本能寺の変が起きている。この時、忠與は秀吉の中国毛利氏攻略加勢の為出陣と定まり、宮津城を出た処でこの報に接している。明智光秀は
我が娘婿細川忠與が当然助けてくれると信じて裏切られ、三日後に秀吉勢に敗れ命を落としている。秀吉が信長の大法要を営んだ時細川藤孝は申し訳ないと頭を丸めて幽斉と号し、光秀に組付かなかった忠與共々、大法要に参加し、そこで幽斉秀吉から墨付をもらう。
 余談になるが、明智光秀の娘で、忠與の夫人が、この事件で丹後半島の味土野へ幽閉された、かの有名なガラシャ夫人である。
 もともと時勢をみるのに敏感であった幽斉は、この時、秀吉に丹後平定を固く約束したのであるが、丹後に勢力を依然としてもっていた一色は、そう簡単に攻められず、秀吉からは「まだかまだか」と書状で責められ、忠與に一色義俊の婿入りを画策させる。これを機に、双方丹後二分領の約束がなされたが、これは義俊以下一色方を謀る口実にすぎなかった。
 一色方は、幽斉の意中を読み、軍評定の結果、主君が死地に招かれるとして賛成しなかったが、義俊はこれも覚悟の上と、天正十年九月八日、弓木城(岩滝)より海路田辺城(舞鶴)へと、家臣150余人を引きつれ向かったのである。
細川軍談記では・・・藤孝(幽斉)は別室にあり、忠興と義俊殿八畳の間にて義兄弟の盃をを交わす。義俊殿が杯を目の高さまで干す時、忠興公刀を引き寄せ給う、隣室に控えていた家臣どっと飛び出し・・・と謀殺の下りを丁寧に書いている。
 一色軍談記では・・・家臣皆別室で御馳走になり、主君一大事の事、石川左衛門血だるまとなり、これを知らせたがそこに絶命。家臣皆驚き駆け出すと、火が消され行方も知れず大乱闘となる。文吾秀澄身を助けて、家臣達大奮闘の働きをするが、手にとるように書かれている。
 やがて義俊も先史。一大事に御座ると弓木城へ帰城した家臣たちは、丹後諸城主を集めて軍評定、峰山吉原城主、一色五郎義清(義俊の叔父)を主君に迎えて籠城することになる。秀澄以下石川方も弓木城へ籠城。天下に有名な稲富伊賀守り(元弓木城主)の鉄砲で、細川方の奇手をさんざん破ったが、義清以下、細川方本陣目指して撃って出たが、一色方に利なく宮津大手川にに於いて義清一族戦死し、九月二十八日遂に弓木城は落城する。
 丹後支城や砦も、ここに至って落城、伊久地(幾地)城も十月三日落城して行く。さてここで問題の石川五右衛門である。此処で石川五右衛門がどうなってゆくかである。兄秀澄は戦死、姉の夫坂根斉も戦死、彼だけが落城後行方不明になったと伝えられ記録されている。
 諸城の家臣達も命あるものは逃がれ、今も何等かの形で書き残されたり、伝えられたりしている。細川方は随分ときびしく残党狩りをしている。一色が余程恐ろしかったと思われる。
 丹後諸城落城が、一色氏の運命と共に消え去る悲運は、言わば信長や秀吉の天下覇権の犠牲であり、弱肉強食の多くがその運命と共にした戦国乱世の無情性とは言うものの、一色氏もまた、足利氏末流の逃れられない運命を負わされ、長い戦乱の中、一色方に裏切城主が幾人も出るという、時の流れをどうすることも出来ず、秀吉の書状から謀殺にまで事の進んだ惨状を、五右衛門はどのように眺めていたのであろうか?と、浪江重雄さんは語っておられる。そして、石川氏の祖先は、名門平氏の末流で、その出身も大和国石川郡で、伊賀ともつながりがあり、24才の時、伊久地城落城から推して天涯孤独となった彼が、大和を訪れても不思議ではないと、伊賀との説明をされた。
 だが忍者としての伊賀説は、幼名が兄の文吾になっており、誰が兄と五右衛門を一緒にしてしまったのか知らないけれども、きっぱりと、伊賀説を否定された。
 もし、伝説通りの忍者として、義賊にもなり、貧乏人を助けたのなら流石は城主の息子だけに育ちが違う。時の天下人の政治に反抗する反骨精神も立派だし根性があるが、彼の英雄振りは、ほんとうの彼でなく、後世の芝居が作り上げた出鱈目だと言い切られた。
中略
 五右衛門の実在性については「続本朝通鑑」「暦朝要紀」に明らかで、文禄三年(1595)8月24日、山科言経という公郷の日記に、京都三条河原で釜煎りの成敗にあったと記されている。
 石川五右衛門の丹後出身説は、今に始まったことではなく、何代も地元の人々へのみ言い伝えられてきたものであり、それが、地元の人の意に反し余にも有名化し伝説の忍者として面白く書かれてきた為に、丹後出身説は、何か悪いことでもしたかのように、内々語り伝えられて今日に至ったのである。五右衛門は、城主の息子であり、謀殺された丹後の血だるまな父や兄、主君の無念、落城の悲鳴などを胸の内に秘め、復習にもえた一人の人間であり、盗方、忍者というのは、表面的な浅い物の見方といえる。
(*注・・名前(系図が、五郎右衛門となっているのは、昔に於いては発音の時、省略することはよくあることであり、石川五郎右衛門の場合にも、石川五右衛門となって、なんら不思議ではなく、同一人物であると言われた)
7月10日浪江重雄さん宅にて    (糸井久尚)
ここからは筆者吾輩が・・・吾輩が飲み会で聞いた末裔と言われた方の苗字は坂根氏であるが為、系図から察するに五右衛門の兄妹「菊寿」が家老「坂根斎」と結婚その流れを汲むものであるのではないかと思われる。
尚、この文章「石川五右衛門」を書き出すにあたり、筆者の糸井久尚氏(どこの誰だかわからない)の了解は取れていませんので、万が一不都合のある方がおられればご一報ください。

法泉寺水の独断と偏見の水の評価は
良くも悪しきも、井戸水であった。水は軟水であり我が家の水道水の方が、コーヒーは美味しく感じた。吾輩の口がおかしいかも(?_?)
詳しい場所


 


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